日本の石橋を守る会会員で,熊本県上益城郡山都町在住の松井輝義氏が書かれた小説です。通潤橋架橋にまつわる布田保之助周辺の人間模様など,私たち石橋ファンにとっても興味深い,貴重な石橋研究資料にもなるかと思っています。松井氏の承諾を得ましたので,ここに紹介させていただきます。
 

 

翔べ、胡蝶!--- 通潤橋の記憶

松井輝義

 
  梗 概

  熊本県央となる上益城郡山都町長原(旧、矢部郷浜町)に所在する日本最大の石造アーチ水路橋である通潤橋を題材とした物語であるが、史実をもとにしたフィクション、つまり史実に忠実ではないことをはじめにお断りしておきたい。
 布田保之助は、肥後国上益城郡矢部手永の惣庄屋だった。矢部郷の南部にあたる白糸台地は、北は低地の浜町につづき、台地の尾根が南に肩下りとなる残る三方は轟川、緑川、千滝川という水量の豊かな川に囲まれていながら、深い谷にはばまれて田畑をうるおす水源がない極貧の村だった。轟川の谷に水を通す樋を背負った橋を架けてこの白糸台地に水をわたし、不毛の地を豊穣の地にかえることが、保之助の生涯をかけた事業であった。
 このことはまた、惣庄屋であった保之助の父や叔父の悲願でもあったが、そのような大橋を架ける技術があるのか、そのための莫大な資金の工面がつくのか、はたまた肥後藩庁の建設許可が下りるのかといった難問を前にして、ふたりは架橋を断念せざるをえなかったのである。このことはとうぜん保之助にとっても難問であった。しかし、「眠ったような徳川の世ではあるが、時代は風とともに動いておる。そのうちかならずや、新しい架橋技術もあらわれるであろう」といった叔父のことばどおり、当時のハイテク集団ともいうべき先進的な石造目鑑橋(めがねばし)架設技術を有する肥後の石工集団が存在したのである。
 八代の種山石工という。名工岩永三五郎が矢部郷と境を接する砥用(ともち)郷に雄亀滝橋(おけだきばし)という肥後国最古となる石造アーチの水路橋を、弟弟子の宇助、宇一兄弟が日本最大の単一アーチ橋である霊台橋を架設するのである。その種山石工の宇一、丈八兄弟が保之助の吹上台目鑑橋、つまりのちの通潤橋を築造することになる。     
 惣庄屋となった保之助は、砥用の二つの目鑑橋を手本として通潤橋を建造し、逆サイフォンの原理によって橋の上に敷設した三本の送水石管を通して対岸の白糸台地に灌漑用水を吹きあげ、不毛の地といわれた白糸台地に100ヘクタールの新田をひらくことに成功するのである。
 しかし時代は、通潤橋着工から竣工、そして新田開発完了までの間に、嘉永六年(1853年)六月ペリーの浦賀来航、翌年の再来航と怒涛の幕末期に突入するのである。幕末の動乱の風にあおられる胡蝶のごとく天空たかく飛翔していく前途有為の者たちのなかに、益城の横井小楠と宮部鼎蔵がいた。横井小楠は天才的な思想家として、宮部鼎蔵は尊皇攘夷の志士として幕末を旋回させるが、ともに凶刃にたおれる。

 このふたりと親交のあった保之助は小楠の「公共の道」と鼎蔵の「孝忠」を体現した矢部郷でおだやかに終末をむかえる。七十二歳であった。     




  プ ロ ロ ー グ

 「恐れながら、矢部手永惣庄屋布田市平次(ふたいちへいじ)、ご郡代仁田さまにお願の儀これあり、なにとぞお聞きとどけくだされますよう願い奉ります」
 文化七年(1810年)二月二十日、御船(みふね)の上益城(かみましき)郡代所における年頭惣庄屋寄合の席であった。
甲佐・鯰・沼山津(ぬやまづ)・木倉(きのくら)手永の惣庄屋たちは、内々の談合もなく、唐突に上座の郡代仁田四郎作に願いでた布田市平次に、一様に不審の目をむけた。
 「うむ、苦しゅうない。その儀なにごとか申してみよ」
 と仁田四郎作は、平伏する矢部手永の惣庄屋にゆるゆると声をかけた。
 「恐れながら申しあげます」
 平伏した布田市平次は顔をあげ、上座に端坐する郡代に目をあてた。市平次の顔がこわばり、青ざめている。
 
 「矢部手永よりも毎年、堤防工事の川普請や土砂災害に際し、三千人余の夫役(ぶやく)をいたしております。さらには、年貢米輸送にも三千人余の夫役を出しております。仁田様もご承知のごとく、矢部郷は寒村にして山また山のきわめて交通の便悪しく、そのためはなはだしく開発が遅れておりますれば、矢部郷七十六か村の民みなひとしく暮らしに困窮いたしております。さればこのままでは郷民の繁栄を期し、百年の幸福を将来するは望むべくもありませぬ。
 しかるに、かような村々の手当をあとまわしにいたし、もっとも遠隔の地でありまする矢部郷より、すでに豊かなる田畑をお持ちの下方(しもかた:川下)のみなさま方の土地へ、さらなる川普請や災害に、毎年多大なる夫役をいたしまするは、肥後国の繁栄という大眼目からみますればまことに当然のことではありまするが、みずからをいかす手立てを講ずることのできませぬまま、他の郷に益をおよぼすことなど到底できぬことでありますれば、ついには矢部郷の破滅を招くものでございます。
 されば、まず矢部郷の開発発展を成就させましたるのちに公役にも服することこそ、当然のことであろうかと存じ奉ります。恐れおおく、願い奉りがたき次第に存じまするが、なにとぞお上のお慈悲の筋をもって、矢部手永よりの夫役、しばらくご猶予くだされますよう平に願い奉ります」
 郡代屋敷の広間が、一瞬にして不穏な空気につつまれた。
 
 川普請とは当時、上益城郡の平野部に当たる御船川と赤井川との合流点付近で、毎年のようにおこる洪水に対処するため、郡がおこなっていた治水工事のことである。
 野分(のわき)による洪水で川塘(かわづつみ)が切れれば、決壊個所の修復に多大の夫役を必要とした。また豪雨による山崩れや崖崩れ、土石流などの土砂災害がおきた際も同様であった。家屋が破壊されたり、川がせき止められたりする被害が相つぎ、被害を受けた手永では人出がいくらあってもたりなかった。

 郡代の要請により各手永は、毎年多くの人夫を出夫していた。このような夫役は、加藤清正の時代からの古いしきたりをそのまま引きついできたものだった。川普請には、一度に何百人もの人手を出さなければならなかった。上益城郡の南のはずれにあり、零細な山間の農村が寄り集まった矢部郷からの川普請の場合、行くのに一日、帰りに一日、労役に一日と、つごう三日は必要としたのである。
 たとえば文化四年(1807年)六月二十日の大洪水の際、矢部手永は、緑川筋へ何百人もの夫役を命じられた。甲佐の川も氾濫したので同様の夫役の要請があり、御船の川にも同じように人夫を出した。このように、矢部手永にはなんら益のない上益城郡内すべての川普請に、矢部手永では毎年村で定められた役男(十八歳から四十歳までの男たち)三千人余を出夫していた。
 矢部手永惣庄屋布田市平次は、この不合理をなんとかせねばと長年思い悩んでいたのである。
 
 阿蘇外輪山の南西裾野に位置する矢部郷は、阿蘇の噴火によって生成された熔結凝灰岩におおわれ、浸食されて谷は深く、平坦な土地に恵まれなかった。火山灰地であるため、降る雨は多くても地中にとどまらず、田地に不向きで原野のままのところが多かった。そのため山間地を切りくずして棚田となし、畑を作り、さらに道、溜め池、川塘、堰などをつくらなければならなかった。とくに幹線道路である日向往還の手入れがまったくできず、市平次はほとほと困り果てていた。

 矢部郷では毎年、およそ三万二千俵の年貢米を三千人余の夫役で御船郡代所に輸送していた。ところが荷を積んだ馬が通る道は、当地でいうところの馬しゃくり、つまり荷駄を積んだ馬の足跡で道が階段のようにがたがたに痛んでしまうのである。
 他郷では、これを春秋の彼岸の道普請で削ってならすので通りやすくなったが、矢部では、他郷の夫役に人手を取られ、郷内の道路の夫役に人を出せず、道は荒れほうだいであった。それでおのずと人や物資や商品、さらには文化までもが矢部郷を避けて通ることになったのである。
 そのようなわけで、実際、遠隔地である他郷のためにさく余分な人手はなかったのである。矢部惣庄屋布田市平次は、夫役免除による余剰の多くの人手をつかい、道普請をはじめとする郷内の開発事業をおこなう心づもりであった。
 そのような矢部郷の事情は、ほかの惣庄屋たちもじゅうぶん承知ではあったが、事前に何の相談もなく、市平次が唐突にこのような場で夫役免除を願い出たことが、大方の反発を招いたのだった。
 
 だが、郡代仁田四郎作は、その場のただならぬ気配に気づかぬごとく、柔和な顔に笑みさえうかべておだやかに口をひらいた。
 「矢部手永惣庄屋布田市平次、相わかった。かねてより矢部の窮状、多々聞きおよんでおる。そなたの言い定、まことにもってもっともである。
 されば、みなのものに申しわたす。本年以降、矢部手永は夫役御免といたす。ただし、矢部手永におけるいかようなる災害も、矢部手永自身の手で解決いたせ。みなのもの、左様心得よ」
 「ははあー」
 五人の惣庄屋は、青畳に両手をつき背中を低くしたが、矢部惣庄屋をのぞくほかの惣庄屋たちは、わだかまりを深く胸にきざみこんだままであった。

 布田市平次が供の常吉をともなって郡代所を辞したとき、見あげた厚い鈍色の空から、あらたに白いものが舞いはじめていた。降りつもった雪をふみしめつつ、市平次は、つい先ほど申しわたされた夫役御免の喜びが、五体くまなく駈けめぐるのを楽しんでいた。
 これによって、どれだけ矢部郷の村人の肩の荷が軽くなったことかはかり知れないのである。そして市平次は、やらねばならぬ郷内の道普請、新田開発、その他の土木・利水事業に、おもいのままに村人の手をまわすことができるようになったのである。郷民の繁栄を期し百年の幸福をもたらすいしずえが、いまここにゆるぎなく保証されたのであった。
 帰りを急ぐ市平次は、雪のなかで跳びはねたいほどにはずむ心をかかえて足をはこんだ。
 
 いつしか粉雪が牡丹雪にかわっていた。
 長くけわしいぐみ坂をのぼるころから、雪の降りがいちだんと強くなった。茶屋元あたりでは大雪になり、足を運ぶにも不自由なほどだった。
 市平次の笠や蓑がしだいに重くなってきたころ、たどりついた長谷村は、はや夕闇のなかであった。
雪まみれになった市平次と常吉が転がりこむようにしておとなった先は、長谷村の庄屋江藤烈太左衛門の屋敷だった。
 
 なにごとかとあわてて出てきた烈太左衛門は、市平次を見ておどろいた。この大雪のなか難渋したであろうに、市平次がいかにも嬉しそうに、にこにことして立っているのである。
 「布田さま、いかがなされました。そのように、にこにこと嬉しそうになされて」
 烈太左衛門は、大雪と市平次の笑顔が結びつかず、怪訝の体であった。
 市平次は通された客間で、烈太左衛門に事の次第をかいつまんで語った。
 「これで積年の心のつかえが晴れ申した。ご郡代にはいかように感謝しても、感謝しすぎるということはありませぬ」
 と目をうるませる市平次のことばに、烈太左衛門も涙ぐんで深くうなづいた。

 市平次が火鉢をかかえこみ、冷えきった体を温めているところへ、烈太左衛門が怪訝な面持で、「鯰手永の惣庄屋さまがたずねてみえました」と告げにきた。鯰の惣庄屋とは親戚同士であった。
 鯰の惣庄屋は、わざわざ郡代所から雪のなか後を追ってきたという。
 「なにごとでござりますか、かような大雪のなかをわざわざおいでいただくとは」
 市平次は、対座した客人の方へ火鉢を押しやりながらいった。
 「それがその・・・」
と、客は口ごもった。
 「・・・・」
 市平次は無言のまま、相手のことばをまった。
 「あのあと、残った惣庄屋たちが額をあつめました席で」
 と、やがて火鉢にかざした手に視線をおとして、鯰手永の惣庄屋が語りはじめた。
 おもだつ惣庄屋が憤懣やるかたない様子で声を荒らげた、という。
 「布田市平次が申す道理はわかる。がしかし、あのやりようはあるまい。まえもってわれらとよくはかり、たがいに納得いたし、しかしてのち、その旨ご郡代に申しあげるというならば、多少なりとも可愛げもある。
 しかしあのようなやりようには我慢できぬ。あれでは我らの面目、丸つぶれではないか。あの破廉恥漢、これからどの面さげてわれらの前に出てくるつもりであろうか。
 従来のしきたりはしきたりとして守らねばならぬ。布田市平次が夫役御免の儀とりさげると申すならば、このたびのこと水に流してもよい。
 しかしあくまで矢部郷大事とて、われらへ協力できぬと強弁するのであれば、われらにも考えがある。布田市平次の落ち度を一つ一つ探しだし、阿蘇家以来の惣庄屋がお召しあげになるよういたさんとおもうが、いかが」

 「―――と、まあ左様なわけで、とるものもとりあえず、大急ぎであとを追ってまいり申した。ここはひとつ・・・」
 と客は、両手で火鉢の縁をつかんで身をのりだした。
 「其許(そこもと:貴殿)がいま一度おもいなおし、御船にひきかえして、夫役御免の儀を願いさげくだされば、すべてまるく納まり申そう。
 さすれば、ほかの惣庄屋たちの面目もたち、従来どおりのおつきあいもでき申すというもの。
 そうなれば其許のためにもよし、布田家のためにもよし、はたまた矢部郷の民にとっても、よきことではありますまいか」
 「・・・・」
 布田市平次は、腕をくんだまま目を閉じた。
 ―――この者も、ほかの惣庄屋たちと同類にちがいあるまい。布田家の親戚であることを理由に、説得方をむりに押しつけられのであろう。ご苦労なこと。
 と、市平次はあわれんだ。
 自分の立場がどうなろうと、気にすることではなかった。矢部手永の基となる七十六か村の繁栄と幸せが、惣庄屋として、布田市平次の望みのすべてであった。
 阿蘇家家臣として鯰村に住まいし、惣庄屋をつとめて清正公の世にいたり、ひきつづき代々惣庄屋をついできた祖先も、また同じ思いであったろうとおもった。
 「せっかくのお言葉ではありまするが」
 と市平次は背筋を張り、おおきく見開いた目を対座する相手の目にすえおいた。
 「このこと、わたくし惣庄屋および布田家の問題ではありませず、矢部郷七十六か村の死活問題でありますれば、夫役御免の儀返上のことは、かたくお断り申す」
 市平次は、岩をも断ちきるように断固と拒絶した。
 鯰手永の惣庄屋は肩をおとし、悄然として降りしきる雪のなかをもどっていった。

 長谷村庄屋屋敷の静まりかえった客間の行燈が、ジジッと音をたてて火影をゆらした。文机にむかう布田市平次の、畳にのびた暗い影がゆれた。
 市平次は、ゆっくりと墨をする。
 このような人生の結末になろうとは、ついさきほどまで夢想だにしないことであった。だが悔いはなかった。澄みきった心持ちであった。
  ―――ひとり自分が犠牲になれば、ことはすべてうまくいく。布田家の家名に傷をつけず、夫役御免により矢部郷すべての民の負担をとりのぞくことができ、民百年の繁栄と幸福への道筋を開くことができる。あとは布田家の子孫たちが引きついでくれるであろう。
 ここまで思いをめぐらせたとき、市平次は不覚にも涙をこぼした。一子保之助の面影をおもいうかべたからである。利発な子とはいえ、まだ十歳であった。その歳で父を失う不憫さをおもうと、ふたたび涙があふれた。
 市平次は、涙をはらって筆をとった。


 今般御船郡代所にて年頭寄合せし折、御郡代仁田四郎作様より夫役御免の儀申渡されし候事、恐悦至極に存じ候。然れども、他の四惣庄屋揃ってこの儀面白からずとの故を以て、布田家惣庄屋御召し上げに陥れんものと謀る所存にて候。笑止千万に候えど、此の儘捨て置き候わば、折角の夫役御免の儀及び布田家に累や及ぶは必定と存じ候。故に矢部郷の民を救わんが為、一命を以て災厄を断たんと覚悟致し居り候。この儀万止むを得ぬ事と申し候間、保之助元服の折御話下され度、右御願い申し上げ候。

  文化七年二月廿日
                                   布田市平次

   布田友次殿


 ときに矢部惣庄屋布田市平次惟行、三十六歳であった。
 葬儀は、同月二十八日にとりおこわれた。

 市平次の嫡男である保之助は、にわかに布田家本家の養子となった叔父友次が布田太郎右衛門を名乗り、養父となって訓育することとなった。
 市平次が保之助に残したものは、一枚の地図であった。市平次みずから数年をかけ、矢部郷をくまなく測量して作成した、精密な矢部郷実測図である。伊能忠敬の、大日本沿海輿地全図にさきだつこと十四年、文化四年(1807年)の完成であった。
 保之助は、その地図のなかに父の業績をさまざま見いだし、父の夢の軌跡をたどることになるのである。




  万 坂 峠

 文化十三年(1816年)、布田保之助は元服した。かぞえで十五歳である。名乗りは惟暉(これてる)である。
 今朝叔父布田太郎右衛門にともなわれ、御船の郡代所に元服の挨拶におとずれた。父市平次が最後にくぐった門を、子の保之助が初めてくぐったのである。
 市平次のあとを襲って矢部手永惣庄屋となった布田太郎右衛門は、前髪を下ろし月代を青く剃り紋付羽織袴に威儀を正した保之助をともなってその門の前に立ったとき、万感胸にせまりくるものを禁じえなかった。保之助のういういしい姿を見るにつけ、兄上に一目見ていただきたかったと、あらためて無念のおもいが太郎右衛門の胸の襞(ひだ)をひりひりとかんだのである。

 郡代は、中村四郎右衛門であった。前任者の仁田四郎作が、お役停止をこうむったためである。仁田四郎作は当時、大分郡野津手永から上益城郡代として転任して日も浅く、昔のしきたりを知らず、そのうえ上司である奉行に相談もなく、独断で矢部手永の夫役御免の裁可を下したため、その責めをおったのであった。
 ちなみに肥後藩における奉行は、藩政の中枢となる役職である。

 十五歳の布田保之助が、叔父太郎右衛門とともに目の前に平伏している。      
 中村四郎右衛門は仁田四郎作から市平次急死の話を聞き、委細承知していた。青々とした月代もういういしい保之助を見つめるその眼差しには、憐憫と同情の色がうかがえた。
 「両人、おもてをあげよ」
 郡代のことばに、保之助は手をついたまま顔をあげた。
 「保之助は、はや十五歳に相なったか」
 「はい、左様でございます」
 「月日のたつのは早いものだな、布田太郎右衛門」
 「御意にござりまする」
 太郎右衛門は、郡代中村四郎右衛門の思いやりのこもったことばに感謝のにじんだおもてをむけた。
 「保之助、そなたの父は惣庄屋としてみごとに大きく高潔な人であった。矢部手永はじつに惜しい人物をうしなったものだ。今後はそなたも父にまけぬ、立派な惣庄屋になるよう精進するがよい。こたびの元服、じつにめでたい。保之助、祝いにこれをとらせる」
 と、中村四郎右衛門は一本の扇子をとり出し、保之助の目の前にさしだした。
 「ありがたき幸せにございます」
 保之助はそれをおしいただき、深く辞儀をした。そして誇らしげに扇子をたばさみ、叔父とともに郡代中村四郎右衛門の前を退出したのであった。

 ここですこし肥後細川藩の手永制度についてのべたいとおもう。
 初代藩主忠利が前任地である小倉時代からのものを導入し、第八代藩主重賢(しげかた)が財政改革のため実行した宝暦の改革(1751年~1764年)により、完備運用された地方行政の根幹をなす制度である。
 手永は、郡と村との中間にある行政区画である。肥後藩を十三郡に分割し、さらに五十四手永にわけて、当初郡奉行(こうりぶぎょう)と呼ばれた郡代に支配させ、江戸時代後期には藩は直接地方行政にかかわらぬようにしたのである。郡の総責任者である郡代の助役としてそれぞれに惣庄屋が任命され、二十か村から三十か村を一括支配した。これらの村には庄屋がおり、今日のそれより狭く、ほぼ大字に相当する。矢部手永は七十六か村を有し、肥後藩最大の手永であった。

 郡代の下にはその他に御山支配役、手付横目等の役職があるが、惣庄屋を含むこの三つを手永三役といい、地方行政の実務官僚であった。藩は地方の政治、経済、軍事を地方主導・民間主導とし、それによって藩財政の節約をはかったのである。
 肥後藩の財政は、重賢の宝暦の改革が効を奏したとはいうものの、そのじつ封建体制維持であるため、そのための負担が重く農民にのしかかり、実質的な財政好転には結びつかなかった。財政の逼迫状態は幕末まで引き継がれていくのである。
 民政と徴税行政をとりしきる惣庄屋の自助努力により手永に利益が出た場合、手永会所という役所に蓄えることがゆるされ、その管理は惣庄屋にまかされた。惣庄屋は郷内のさまざまな事業―道路、橋、井手(用水路)、新田開発、殖産興業など―に官銭(そうして蓄えた資産)を利用して、農村の生産性の向上をはかった。新田には三年間免税の鍬先免(くわさきめん)という特典があたえられたため、各手永の惣庄屋は井手をひいて新田開発にはげんだのである。

 そのようにして田地をひろげた結果、関ヶ原以降肥後藩の表石高は五十四万石、裏高七十五万石といわれていたものが、近年の研究によれば、1800年代半ば前(天保年間)には実高二百万石ともいわれ、九州最大の穀倉地帯になるのである。
 くわえて農民の年租が、宝暦の改革当初四割六分であったものがおよそ五十年後には三割八分に軽減されるのである。年貢率が六公四民や七公三民であった東国の農民と比較してはるかに優遇され、肥後の農民はそのぶん農業に生きがいを感じることができたといえるのではなかろうか。
 肥後藩がこのように九州最大の穀倉地帯になりえた最大の理由は、肥後米が大坂米相場の最優良銘柄であったからにほかならない。肥後米は他国にさきがけて収穫され生産高も多く、このためしぜん新米価格の相場を決定するようになり、かつ翌年の標準米価となった。そのため肥後米は大坂商人の大切にするところとなり、その結果、矢部郷のような肥後の山中でも開田事業にわきかえるほどになったのである。
  
 郡代所から甲佐郷をめぐっての帰途、この万坂峠(まんざかとうげ)にさしかかった。峠を越せばもう矢部郷である。見おろせば、皐月(さつき)の新緑をさいて、末社である小さな阿蘇神社のあたりから川幅を広げ、おだやかに蛇行する緑川が、とうに中天をすぎた陽の光を映して、銀色にきらめくのが目にまぶしかった。ふりかえれば万坂山が、満山燃えるような緑の衣をまとっている。そのはるかかなたに阿蘇五岳(ごがく)がある。大古、阿蘇の御山が大噴火をくりかえしてこの阿蘇の大地をつくったと、保之助は太郎右衛門から聞かされた。

 おおきく枝を広げた山桜が葉桜となって、かたわらの石に涼しげな影を投げかけていた。石に腰をおろし、笠をとってふきだす汗をぬぐったふたりは、黙って眼下の風景に目をやった。鶯が鳴きかわす声が、さかんに足下のほうからひびいてきた。
 太郎右衛門は視線をもどし、保之助をみた。兄市平次の遺言にしたがうつもりであった。
 「のう保之助。そなたは本日、元服の挨拶に郡代所におもむき、大人として世の中に一歩足を踏みだした。それゆえ今日そなたに、そなたの父の死の真相を語って聞かせようとおもう」
 太郎右衛門は、保之助が父の死の真相と聞いて怪訝な顔をするかとおもったが、案に相違して保之助は平静であった。保之助は、父は病死したと聞かされてきたのである。利発な子である。うすうす聞きおよんでいるのであろう。
 「そなたの父は、矢部惣庄屋として、矢部郷の民を救わんがため、夫役御免のおゆるしが末長く守られるよう自害して果てたのだ」
 いままでつかえていたものを吐き出すように、いっきに布田太郎右衛門はことばをあふれさせた。
 保之助は、次のことばを待つように叔父の顔をみつめた。
 太郎右衛門は、文化七年二月二十日の、郡代所における年頭惣庄屋寄合のことをかいつまんで話して聞かせた。
 「日をずらして二月二十八日に葬式を出し、急病で亡くなったと申せば、世間的なつくろいはできる。他の惣庄屋たちもおおかたの察しはついたであろうが、なにごともなかった。
 それゆえ、兄上が一命にかえて手に入れられたこの約定はいまなおかたく守られ、今後ともそなたが惣庄屋となってやるべき矢部のさまざまな事業のいしずえとなるであろう。
 兄上は、そなたが自分にかわって自分の夢を、矢部郷の発展と村人の豊かな暮らしを実現してくれることを願って、喜んで死んでいったのだ」
 布田太郎右衛門は、そっと目を閉じた。目蓋の裏に熱いものを感じたのである。
 あの夜、長谷村庄屋屋敷でみごとに腹を切り、朱に染まって息絶えていた兄のすがたをおもいうかべたからである。
 江藤烈太左衛門から急の知らせを受けて駈けつけた太郎右衛門は、兄の遺体を籠に乗せ、ひそかに浜町の役宅に連れ帰った。そして七日後、藩庁に急病で亡くなったと届け出たのであった。

 「惣庄屋となった暁には、そなたのやるべきことは山のようにある」
 太郎右衛門は、慈愛に満ちた目で若い甥をみた。
 「だがその基本となるべきは、矢部七十六か村がひとしく豊かな暮らしが立ちゆくようおもんばかること、すなわち仁の心をもって事をなすことが、もっとも肝要なのだ。
 わしも惣庄屋としてそのように心がけてきた。今後は、わしのやりようをようく見ておくがよい。新しい道をつくり、旧来の道の改善をはかり、田畑のため溜め池を掘り、河川の築堤をなし、なお新田開発のために川に石堰(いぜき)を積み、井手をひかねばならぬ。そればかりではない。植林や茶、はぜ、養蚕などの振興にもはげみ、もって民力の涵養につとめねばならぬ。
 兄上も惣庄屋になってまもなく、大矢山(南阿蘇外輪山)に大規模な植林をおこっている。これはそなたの祖父桂右衛門がはじめた事業で、わしも志をつぎ、植林をつづけている。そして日々郷内をめぐって目配りをたやさず、できるかぎり手当につとめている。
 だがただ一つ、亡き兄上にもわしにもその手立てがわからず、いまもって考えあぐねていることがある」

 太郎右衛門は、おもむろに陽に焼けたその顔を東に転じ、矢部の地をみはるかした。
 「そなたも存じておろう。南手(みなみで:矢部郷南部)の白糸台地のことだ。北は白糸台地よりも低い浜町につづき、台地の尾根が南に肩下りとなる残る三方は轟川、緑川、千滝川という水量の豊かな川に囲まれていながら、深い谷にはばまれて田畑をうるおす水源がない。飲み水にさえ事欠いておる。
 十一間(約20m)もの深い井戸があるが、これとて、晴れの日がつづけばすぐに枯れてしまう。それで村の谷間に湧き出る水を貯めては、子どもたちが苦労して、日にいくたびとなく桶で水をはこび、ようやくその日その日の用を足しているありさまだ。
 そのような荒野のような土地ゆえ、畑作が主で、四十四町歩の田と申しても下田(げでん)、下々田がほとんどである。二毛作のできる上田は、八反歩(8000平方メートル)とわずかなものだ。
 日照りになれば、頼りとするひえや粟、蕎麦までもがだめになるしまつだ。ために白糸七か村の暮らしは、窮乏をきわめておる。多くの百姓は出稼ぎでなんとか生計を立てている。惣庄屋としてはさせてはならぬことだが、苦しさにたえかね村を離れる者もいる。
 それゆえ、どこか谷の狭まった個所に水をわたすことのできる橋を架け、この不毛の地に豊穣の水をもたらすことができぬものかと考えてきた」

 「保之助」と、太郎右衛門はむきなおって保之助の肩に両手を掛け、その手に力をこめた。
 「白糸台地の村人の窮乏を救うため、この夢の架け橋を、そなたに架けてほしいのだ」
 「夢の架け橋・・・」
 と保之助は、つぶやくように声に出した。
 「そうだ。そなたはまだ若い。そのためにも学問にはげみ、見聞をひろめるのだ。兄上とわしの見たところ、このあたりでは、白糸台地が浜町台地とつくりなす轟渓谷の幅がもっとも狭いうえに、地形的にも都合がよい。が、谷の高さは優に百尺(30m)はある。もしここに、水を通す樋を背負った橋をわたせば、白糸台地の水利の不便が一挙に解決できると考えた。
 しかしながら、われらの思案もそこでつきた。いったい、そのような大橋を架ける技術があるのか。仮にあったとしても、その巨額な建設資金の工面をいかようにすべきか。また藩へ上告して、その裁可がおりるのか。いずれも難問ばかりである。その解決を、そなたに託したいのだ」
 「わたしにできるでしょうか」
 「できる。そなたならできる。今日までそなたを育ててきたわしは、そなたならきっとできると確信している。そなたには、あふれるような探究心と行動力、そして情熱がある。
 それこそ、われらの夢の架け橋の実現に欠かせぬものだ。眠ったような徳川の世ではあるが、時代は風とともに動いておる。そのうちかならずや、新しい架橋技術もあらわれるであろう」

 布田太郎右衛門のことばにまちがいはなかった。
 新しい架橋技術については、すでに当時のハイテク集団ともいうべきものが、肥後には存在していたのである。それは、先進的な石造目鑑橋(めがねばし)架設技術を有する八代の種山石工とよばれる石工集団であった。その名を、やがて保之助は耳にすることになるのである。
 そして時代の風、である。
 文化六年(1809年)肥後藩士横井大平時直の次男として誕生した横井小楠(しょうなん)と、文政三年(1820年)上益城郡(かみましきのこうり)田代村七滝(現、御船町)の医家である宮部家長男に生まれた宮部鼎蔵(ていぞう)の二人は、ともに肥後における尊皇攘夷の志士たちの領袖となり、幕末を大きく回転させる力の源となるのである。

 布田保之助は、藩校時習館に入学する文政二年(1819年)、その二年前に八歳で入学していた横井小楠と邂逅する。入校後ただちに頭角をあらわした小楠は、保之助が惣庄屋に任ぜられる前年の天保四年(1833年)時習館菁莪斎(せいがさい)の居寮生に選ばれ、天保八年二十九歳で居寮長に抜擢されている。のちに攘夷から開国にかたむく横井小楠は宮部鼎蔵とたもとをわかち、勝海舟や坂本竜馬と交友を深くすることになるのである。

 「氷川清話」のなかで、勝海舟はつぎのようにのべている。
 「おれは、今までに天下で恐ろしいものを二人みたよ。それは横井小楠と西郷南洲だ。横井は、西洋にも行ったことがなく、おれがアメリカのことを教えてやったくらいだが、その思想の高調子なことは、おれなどは、とてもはしごを掛けても、およばぬと思ったことがしばしばあったよ。おれは、ひそかに思ったのさ。横井は、自分で仕事をする人ではないが、もし横井の言を用いる人が世の中にあったら、それこそ由々しき大事だと思ったね。その後、西郷と面会したら、その意見や議論は、おれの方が勝るほどだったけれども、いわゆる天下の大事を負担するものは、はたして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ。横井の思想を、西郷の手で行われたら、もはやそれまでと心配していたら、はたして西郷が出てきたわい」
 海舟が「恐ろしい」といったのは徳川幕府の立場から見ればという意味合いであり、「もはやそれまでと心配」した海舟の危惧は、現実となって徳川幕府に降りかかるのである。
 横井小楠の「高調子な」思想とは、小楠の説く「実学」思想の基礎となる堯舜三代の治道(戦争と貧困をなくした中国上古の伝説的理想社会)と孔子の道を、まぎれもない民主主義政治の世界と読み解き、人種・宗教・国家などという枠をとりはらったグローバリズムそのものだった。それは、来るべき近代国家の国益のみにはしる富国強兵や軍国主義には明らかに適合しない、はるかに次元の高いものであった。
 
 保之助は、宮部鼎蔵とは同じ上益城郡という地縁をもって、親交を深めていく。
 軍学師範であった叔父宮部丈左衛門の養子となり、山鹿流兵学を修めた宮部鼎蔵は、嘉永二年(1849年)三十歳のとき、藩に召抱えられ、軍学師範となる。翌年初めて肥後をおとずれた長州藩の山鹿流軍学師範吉田松陰と親交を結び、無二の親友となるのである。
 松陰は鼎蔵を評して、「その人、懇篤にして剛毅というべき人なり」と日記にしるし、また「宮部君はわが友でありながら、その学殖・識見に僕はおよばない。師とするに足る」ともいっている。
 嘉永五年(1852年)、吉田松陰は江戸で再会した宮部鼎蔵とともに、東北諸藩を遊歴して諸国の志士と交わり、東北の事情を見聞しようと計画するが、江戸藩邸の事務処理のミスで出発の日までに過所手形(関所手形)が手にはいらず、鼎蔵との約束を守るべくそのまま桜田藩邸をぬけだし、脱藩してしまう。
 江戸にもどった松陰は、脱藩の罪を問われ、士籍剥奪・世禄没収の処分を受け、長州野山獄につながれる。鼎蔵は、諸国の志士との交流によって尊皇攘夷に傾倒し、帰国後国学者林桜園に師事して国学古典の研究を深め、のち肥後勤王党に参加する。

 保之助のこのときはまだ、江戸の駘蕩とした秩序時代はつづいていたが、しかし時代はこのようにして嘉永六年(1853年)のペリー率いる黒船来航へむけて、静かに、だが確実に胎動をはじめていたのである。
 
 山桜がさわさわと新緑の葉を鳴らし、太郎右衛門と保之助のふたりに心地よい風をもたらした。
「さきほど二人して、田植えが終った甲佐の里を見てまいったが、平坦な土地柄に甲佐大井手が豊かに水をもたらした田園のみごとさは、郡内でも一、ニをあらそう。矢部とは比べようもない。
 土地柄は変えようもないが、井手を工夫して川の水を導けば、古田(こた)をあのような質の良い上田にでき、また新田を開くことができる。なんとか白糸の台地にも水をわたし、井手を張りめぐらし、みごとな稲穂の稔る新田を開きたいものだ。夢の架け橋のことは、ひたすら里人のことをおもい、勉学にいそしみ、見聞をひろめるうち、なにほどか糸口がつかめよう」
 といって太郎右衛門は、笠をかぶって立ちあがった。
 「さて、そろそろ行くとするか」
 「はい」と保之助は、笠の紐をむすんであとにつづいた。
 峠をくだる保之助の足取りは軽い。鶯の鳴く声がたえることなく、そこかしこから聞こえてくる。保之助は、足をはこびながら、今朝はやく浜町の惣庄屋屋敷を出るまでの自分といまの自分とが、明らかにかわったことを自覚した。
 保之助は、矢部の民のためにと自刃して果てた父市平次の夢をついでいこうと、はればれとかたく心に誓ったのだった。




  雄 亀 滝 橋

 砥用(ともち)郷の石野村に行けば、その珍しい石造りの目鑑橋(めがねばし)が見られると聞いた。
 叔父太郎右衛門から父の死の真相を聞かされた二年後の、文化十五年(1818年)四月のことである。
 保之助は今朝早く、夜の明けぬうちに、丑蔵とともに矢部をたち、石野村をめざした。
 八代手永の三五郎という種山石工がその石橋を積んで完成させたと、昨夜砥用郷から来た丑蔵が話してくれたのである。柏川(かしわごう)井手の水を通す石樋(いしび)を背負った水路橋で、通水式が終ったばかりだという。
 下益城郡(しもましきのこおり)砥用手永では、水不足に悩まされる柏川村以下十四か村に灌漑するため、緑川の支流、柏川を分水して、柏川井手開削の工事にとりかかっていた。新大井手の総間数は五千八百十間(10・6km)を予定し、三十五町歩の新田開発をもくろんでいた。砥用も矢部と同じく山間地であるため、急峻な山腹を切り開き、険岨な絶壁を削り、深い谷に石造りの水路橋を架けての難工事であったが、砥用手永の惣庄屋三隅丈八は、いかなる難工事であろうと一歩たりとも退く気は毛頭なかった。
 
 種山石工の名は、保之助はその夜初めて聞いた。
 種山石工は、八代種山村を本拠とする優れて先進的な石工集団である。
 その祖は、長崎出島の若い下級役人であった藤原林七である。長崎の中島川に架かる目鑑橋群が、橋脚もないのに落ちない不思議さにとらわれた林七は、その謎を解かんと思い、当時禁じられていた外国人との接触をひそかに試み、オランダ人から目鑑橋の原理と円周率などを学んでいたが、そのことが知られ、追われて種山村まで逃げのびてきたのである。
 ひっそりと身を隠した林七は、農業のかたわら苦心を重ね、石積みに欠かせない特殊な曲尺(かねじゃく)を考案し、林七流アーチ橋理論ともいうべき架橋技術を完成させた。種山村に荒削りではあるが、素朴な趣を持つ小さな目鑑橋をいくつか残している。そして三五郎をはじめとする多くの弟子や息子たちに、その知識と技術のすべてを伝授したのである。
 ここに、江戸末期から明治中期頃まで種山石工と呼ばれる、時代の先端技術を有する石工集団の誕生をみるのである。彼らは、高度に緻密な石組み技術を駆使して、目鑑橋架設ばかりではなく、河川工事や井手掘削、干拓地の築堤工事などの土木事業にも従事し、社会基盤の整備などを通して、人びとの生活向上に大きく貢献したのである。
 
 肥後の石工の歴史は、しかし、これよりも古いのである。熊本城築城の際、加藤清正がよびよせた近江の穴太(あのう)石工がそれである。
 近江国滋賀郡坂本村穴太を故郷とする穴太石工は、織田信長の安土城築城に関わり、その大石垣をつくりあげた。これが、本格的な城の石垣のはじまりといわれる。
 熊本城完成後も益城郡上島村に住み、その後清正の堤防工事や干拓工事などに従事している。
 その子孫に仁平(1737年~1790年)がおり、肥前で技術を磨き、仁平グループを率いた。仁平は肥後国初となる石造目鑑橋、日渡洞口橋(とうぐうばし)を安永三年(1774年)に築造、天明二年(1782年)阿蘇に黒川橋を架設している。仁平の築造技術は、太?(だぼ:くさび)継工法を特徴としている。これはアーチを成す輪石裏面の継ぎ目に、楔石(くさびいし)をはめこんで、相互の結束をより強固なものにするのである。
 肥後北部で発生したアーチ技術は、その後肥後南部へも広がり、やがて九州全域に波及するのである。だが、この二つのグループが交流したという記録はない。
 
 三五郎の話をしたい。
 三五郎は、八代郡野津手永西野村の石工である。寛政五年(1793年)、野津石工宇七の次男に生まれた。藤原姓を捨て種子山を名乗った林七に師事し、林七の娘三与を妻に迎えている。林七のもとで、目鑑橋の理論と技術を学んだ三五郎は、土木事業全般にも優れた才能を有していた。
 砥用の目鑑橋完成後、その名声により文政三年(1820年)、石工共総引き回し役として肥後藩の八代干拓工事に従事し、完成に十年を要した八代七百町新地築立の功によって、「苗字御免、惣庄屋直触(じきぶれ)」となった。一介の石工が「苗字御免、惣庄屋直触」となったことは、三五郎の石工としての技量が、いかに優れていたかを証するものであろう。これ以後、岩永三五郎と名乗るようになる。
 岩永三五郎は、天保三年(1832年)矢部手永惣庄屋代役であった布田保之助に乞われて矢部郷野尻に、矢部では初めてとなる石造りの男成川目鑑橋(後、聖橋と改称)を架設した。日向往還を切断する男成川(野尻における笠原川の別称)を跨ぐ全長一九・二間(35m)、幅二・七五間(5m)、高さ六・六間(12m)の聖橋は、三五郎の代表作の一つである。アーチの径間が三五郎の作品中最大の十一間(19・9m)ある。
 翌天保四年には矢部惣庄屋となった保之助の依頼にこたえて、矢部の浜町に下馬尾川(げばおがわ)目鑑橋を築造した。

 これらが評判となり、薩摩藩家老調所(ずしょ)笑左衛門を介して肥後藩に三五郎の薩摩招聘がなされた。    
 三五郎は鹿児島において薩摩の石工の手も借りながら、天保十年(1839年)から嘉永二年(1849年)までの十年間に三十六もの目鑑橋を築造した。中でも甲突川(こうつきがわ)に架けた甲突川五石橋(ごせっきょう)はその代表作である。
 ことに大手門につづく西田橋は藩主が参勤交代のおりに使用するため、肥後における三五郎の作品とは比べものにならぬほど華麗なものである。薩摩でつくった石橋は巧みな細工を施した高欄もあり、石をヨキ(斧)で削って磨いたように美しいが、肥後では藩から資金が出ず、人びとが金を出し合ってつくるため、欄干がないものも多く、荒削りのままの実用一点張りであった。

 岩永三五郎はその功績をおおいに謝さるべきところ、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」に巻き込まれ、さらには、石橋はどれも要石(かなめいし)を抜けば落ちるという軍事上の秘密を知る者として、肥後に帰る途中、刺客を差し向けられたのである。これより前、三五郎は永送り(ながおくり:暗殺)を警戒し、義弟の三平や弟子たちを順次肥後に帰していたが、三平は薩摩の国境で追手に切りつけられて左腕に深手を負いながらも、腰に差していた石鑿(いしのみ)を相手の顔面たたきつけ、肥後領の津奈木村まで逃げて命を永らえた。

 岩永三五郎は、ひとり最後まで残った。嘉永二年八月十五日、三五郎は最後の仕事として川内(せんだい)の江ノ口橋を完成させた。その夜薩摩の石工たちや警護の役人たちに祝い酒をふるまい、酔いつぶれたのを見定め、夜陰にまぎれて逃亡した。走りに走って夜が白む頃、袋というところにある肥後藩の番所近くまで逃れてきたとき、馬に乗った追手の一団に取り囲まれてしまった。
 三五郎は、もはやこれまでと覚悟した。そのとき追手の一人がひらりと馬から身をおどらせて地上におりた。原田孫之進だった。三五郎の目付として身分をいつわり、石工としてまぎれこんでいた薩摩藩士である。
 三五郎は、その立ち居振る舞いやことばづかいから武士であることに気づいていたが、原田孫之進は三五郎のもとでの八年間に石工としての技術を会得し、棟梁にもなりうる技量を有した。三五郎は永送りになるのであれば石橋の秘伝や奥義を伝えておきたいと、原田孫之進に自分の持てる技術のすべてを教えた。以後孫之進は三五郎を師として敬した。
 「先生は、薩摩でお知りになった秘密を、肥後にお帰りになっていろいろお話になるおつもりでございますか」
 と原田孫之進は、丁重にたずねた。
 「薩摩はわしの第二の故郷でござります。わしが存分に腕をふるって、三十六ものめがねを架けたところの秘密を、なんで他人に話したりすることがありましょうや」
 三五郎は背筋を張り、孫之進の目を真正面に見すえて言いきった。
 「それを聞いて安心いたしました。あとはわたくしがなんとかいたします。お気をつけてお帰りください。これまでのご恩は決して忘れません」
 陣笠を傾けて深々と一礼したは原田孫之進は、ふたたび馬上の人となるや、馬首をめぐらし音高く鞭を鳴らして馬を駈った。
 部下の藩士たちもまた、馬蹄のひびきを残して走りさった。
 三五郎は、遠ざかる一団の影にむかって心をこめて頭をさげた。
 薩摩では、国境において岩永三五郎を打ち果たしたとして、首が一つ届けられたということであった。原田孫之進が、身代わりに浮浪の者の首を打ち落して差し出したに違いなかった。

 砥用手永惣庄屋三隅丈八は、八代の種山石工三五郎に、柏川井手最大の難関である当惑谷に架ける水路橋を依頼した。このとき、三五郎二十五歳である。目鑑橋の長さ八間五合(15・5m)、径間六間四合八勺(11・8m)である。それも深い渓谷にわたすという。三五郎にとって、初めての本格的な目鑑橋である。肥後においても初めてとなる大きな目鑑橋であり、未だかつて見たことのない堅固な石橋を造らなければならないのである。
 三五郎は熟慮の末、その仕事を請負う決意をした。種山石工三五郎ここにありと天下に知らしめてくれんものと、若い野心が決意をうながしたのである。
 その夜三五郎は、抑えきれぬ高ぶる気持を妻の三与にあびせかけた。
 「三与、わしはかならず、当惑谷にめがねをすえてみせるぞ」
 と三五郎は、首にしがみつく三与の耳に熱い息を吐きかけたのであった。
 その翌朝早く、三五郎は替えのわらじを携えて、砥用の石野村へとむかった。当惑谷を実地検分し、砥用の大工棟梁と打ち合わせをして、目鑑橋とその下地橋(アーチの型枠をなす木造仮設橋)の絵図板を作成するためであった。落ちぬめがねをつくる。胸の裡にそのことばをくりかえしながら、三五郎は日向往還をひたすら北へむかって足を運んだ。
 砥用の地橋大工棟梁万助、伴七の二人にともなわれて、山に分け入り、石野村の奥にある当惑谷を初めて目にした。削り落したような絶壁、浸食をくりかえして亀裂を深めた谷、迫りくる山々―そのすべてが、三五郎に挑みかかってくるようにみえた。三五郎は、おもわず身ぶるいした。深山の冷気が、怖気を誘い出したわけではなかった。武者ぶるいであった。
 ――かならずや当惑谷に打ち勝ち、立派に、ここにめがねをすえてみせる。
 三五郎は、おのれの戦の場を目の前に、いま一度ほぞを固めたのであった。 
 
 その三五郎が棟梁となって、大勢の石工を引きまわし、深い谷に、雄亀滝橋(おけだきばし)と名付けられた水路橋をわたしたという。  昨夜、丑蔵からその話を聞いたときから保之助は、熱病にかかったような心持をどうしようもなかった。宙に浮いたような体を横たえた布団の中で、この目で早くその目鑑橋を確かめたいと念じた。夢の架け橋とは、この橋のことではあるまいか。そんなことばかりが頭の中をかけめぐり、まんじりともせず一夜を明かした。
 砥用の里は、朝の光を浴びて淡い紅色をはじけさせる桜の花がそこかしこと溢れかえり、保之助のはずむ心をなおさら愉快にした。砥用の山並みを視界にとらえ、堅く結んだわらじの足を急がせるうち、丑蔵がはたと足をとめ、指をあげていった。
 「あれをご覧くださいませ」
 険しい山腹を削って貼りつけたような柏川井手が、はるかに遠く長く連なる様が望まれた。標高250mほどにある柏川上流を堰きとめた取水口から、高い山を延々と下りおり、谷にわたした水路橋を通って砥用の里まで続く大井手である。初めて目にするその一大土木工事は、心底から保之助をゆさぶった。
 「あの山を、切り崩し切り崩ししながらの難工事でございました。ではございましたが、ただの、人の往来する道なればそれほど気をつかうことなく、仕事を進めることもできましたでしょうが、あのとおり水路となりますれば、絶対上下することはゆるされませぬ。橋のたもとまで、つねに一定の下り勾配を保たねばなりませぬ。それゆえまことにたいへんでございました」
 保之助は、さもあらんとうなづいた。
 全長10・6kmにおよぶ柏川井手を計画した際、途中の石野村にある渓谷が大きな問題になった。
 「そのとき、下益城郡代不破敬次郎さまが、『かねてより八代の種山石工なる者の評判を聞いておる。その者たちをよんで目鑑橋を架け、その上に水を通す伏樋をし、伏樋の上を往来するようにするがよかろう』と、お知恵を出されたそうでございます」と並んで歩く丑蔵が語った。
 柏川井手に着手する前年6月、砥用手永惣庄屋に着任したばかりの三隅丈八が初めてその深い渓谷を目のあたりにして、いかがしたものかと当惑したあげくの助言であった。一同その助言にいたく感服したという。
 
 保之助は、その当惑谷に雄亀滝橋をみいだした。
 夢にまでみた目鑑橋は、雄亀滝を抱える急峻な沢や屹立する断崖、そして深い谷川の水と萌え出る深山の緑のなかで、いかにも堅牢、剛直ななかに、野趣豊かで素朴なものが感じられた。これこそ夢の架け橋に違いないと、保之助は小躍りしたいほどであった。かならずや三五郎に夢の架け橋を架けてもらうのだと、かたく心にきめたのである。
 割石を積みあげた橋脚は、ともに谷川の岸の堅固な岩盤の上に、どっかりと根をおろしていた。幅一・八九間(3・6m)の石橋は、水平に西南部から東北部に架けられ、石造の欄干が施されていた。石樋(いしび)の水路が橋に埋設されていた。
 山から流れ下りた用水の水量調節のため、水路橋の手前に水門をもうけ、さらに余った水勢を逃がすため、余水吐(よすいばき:排水路)を設けて谷間に落とす工夫がこらされていた。
 「三五郎さまが石積みにかかられましたのは、昨年の十一月でございましたが、下地橋の用材の杣取(そまどり)に入りましたのが、その半年ほど前のことでございます」
 と丑蔵が、雄亀滝橋が出来あがるまでの話をはじめた。
 「山から切り下ろした用材がすべて整いましてから、下地橋の本工事がはじまりました。足場の悪い谷川の川床に、柱の数だけ穴をうがち、これに柱を立て、下地橋を組み立てていくのでございます。三十人ほどの大工が総がかりで朝早くから日が暮れるまで、それも出来あがるまで、休むことなく働いておりました。この水路橋が完成しなくては、新井手はなんの役にも立ちませぬ。惣庄屋三隅丈八さまや山支配役の篠原(ささはら)善兵衛さまを先頭に、郷内の村の衆みなが力を合わせまして、この難所の橋架けに取り組みましてございます」
 丑蔵も五人組の村人たちと組んで、石切り場から、注文どおり正確に切り出された大きな石を数知れず運んだという。石にかけた縄に通した2本の丸太を肩に、交代しながら、工事現場まで担ぐのである。
 それを橋脚部の石垣に組みあげたのち、絵図板にしたがって下地橋アーチ部分の両端から、輪石を正確に中央部に向かって積んでいくのである。その中心部に、計算通り要石が納まれば、工事の大半は終わったようなものであった。あとは輪石の上に間知石(けんちいし)や壁石を積みあげていくだけである。下地橋の柱を徐々に取り外していけば、アーチの輪石がわずかに沈んでみずからの重みで互いに強固に噛みあい、重量が要石に集中し、そのバランスで橋は安定するのである。
 
 大工たちがその下地橋の柱の上部をわずかずつ切り取っていく様子を、いかような心持ちで三五郎はみていたのであろうかと、保之助はおもってみた。アーチの径間と拱矢(きょうし:アーチ径からの高さ)の取りようが誤っていれば、たちまち橋は崩れ落ちるのである。ましてや三五郎にとって初めての大橋である。確たる自信があるにせよ、手に汗握る緊張を強いられたとしても当然のことである。
 だが、三五郎の石橋は落ちなかった。
 見守っていた村人たちの雄たけびのような歓声が聞こえるようであった。抱き合って喜ぶ者、飛び上がって奇声を発する者、静かに涙する者―それそれが、それぞれのおもいを胸に、それぞれの喜びをあらわしたであろうことは想像に難くない。これで三十五町歩もの新田ができたも同然であった。
 いうまでもなく三五郎の喜びもひとしおであったであろうが、保之助は、惣庄屋三隅丈八の感慨はいかばかりであったろうと推しはかった。
 砥用郷の民の幸せを願い、ただひたすら夢を追って、惣庄屋として持てる力のすべてを注ぎこんだ大事業である。およそ五年の歳月を費やしている。頬を濡らす涙をしばしとどめることができなかったのではあるまいか。そうおもった保之助も、おのずと目頭を熱くしたのであった。




  砥 用 手 永 会 所

 保之助がおとずれた砥用(ともち)手永会所には、酒の席がもうけられていた。
 下益城(しもましき)郡代不破敬次郎を上座にすえ、砥用惣庄屋三隅丈八、山支配役篠原(ささはら)善兵衛、地橋大工棟梁万助ならびに伴七、石工棟梁三五郎など工事関係者の主だった者と会所役人らが左右に膳をならべて、盃を傾けている座敷に通された。雄亀滝橋が架かった対岸の井手もすでに大半の工事を終え、完成の目途がついたための慰労と目鑑橋架橋祝いを兼ねた、郡代不破敬次郎のはからいによる酒宴であった。
 「構わぬ。今日は無礼講じゃ。通せ」
 保之助が、持参した叔父太郎右衛門の書状を会所役人を介して惣庄屋三隅丈八に届けたところ、矢部惣庄屋の甥布田保之助なるものが、将来矢部にも目鑑橋を架けたき所存にて当地をたずねてまいりましてございますと、三隅丈八が郡代に伝えたのである。
 保之助は、下座で平伏した。
 「矢部手永惣庄屋布田太郎右衛門の甥、布田保之助にございます。このような席へ不躾にもお邪魔いたし、恐縮つかまつります」
 「今日は無礼講ゆえ、遠慮は無用じゃ。そなたのような若者が、惣庄屋の心掛けをいだいて見聞を広げんと志すは、見あげたものじゃ。盃をとらす。近こうよれ」
 「ははあ」と、平伏した保之助が顔を上げて膝行(しっこう)しようとするのを、郡代不破敬次郎は手をふって制した。
 「ああ、よいよい。構わぬ、立ってまいれ」
 保之助は恐縮し、一瞬躊躇したが、頭を低くし腰をかがめて郡代の前にすすみでた。
 「何歳に相成る」
 不破敬次郎は、保之助に盃を与え、手ずからそれに酒を満たした。
 「十七歳に相成ります」
 保之助は盃をおしいただき、それを一口で干し、盃洗で清めたものを郡代にかえした。
 「左様か、十七歳か・・・そなたの亡き父、布田市平次のことは聞きおよんでおる」
 不破敬次郎は、保之助が酒器をかたむけるのを盃に受けながらいった。
 保之助ははっとして顔をあげ、不破敬次郎の顔をみた。
 「惣庄屋たるもの、布田市平次のごとくありたいものじゃ。私心を捨て、一命を捨てても、ただただ民をおもい、ひたすら任された国につくす。この滅私奉公こそ、民の上に立つ者の第一義。ここにおる三隅丈八も、その一人じゃ。此たびの柏川井手のこと、砥用国はじまって以来の大業である。これによって柏川村以下十四か村ことごとく灌漑の益をこうむらざるはない。これ、お上の勧農富民の手本というべきである。
 おもうにこの大業によってその益、末長く子々孫々にまでおよぶであろう。布田市平次の遺徳も同様であろう。であればこそ、息子であるそなたが今、ここにいる。市平次の遺訓を体現せんとしてな」
 不破敬次郎は、ふたたび盃を保之助に与え、酒を注いだ。
 「そなたの父はみずから足を運び、矢部郷内くまなく測量してまわり、じつに詳しく精密なる矢部の地図をものしたと聞く。天晴れなることよ。これもまた矢部国はじまって以来の大業というべきであろう。測量と申せば、砥用にも、測量技術に優れたる者がいる。そこの篠原善兵衛の隣に座りおる」と不破敬次郎は、保之助の肩越しにその眼差しで指し示した。
 「峙原村(そばはらむら)の大工棟梁伴七は、大工棟梁にとどまらず、旺盛なる研究心をもって測量技術を極めたばかりではなく、みずから精巧な測量器や天球儀まで創案し、つくりあげてしまったほどの男じゃ。伴七がいればこそ、柏川の取入れ口から一分の狂いもなく、下り勾配を保って井手を引くことができた。
 また、石工棟梁三五郎じゃ。当惑谷にわたした雄亀滝橋も、種山石工の名工、三五郎があればこその成果である。もしこの橋が架からねば、三隅丈八の大業も成就しえなかったであろう。ゆえに保之助、忘れてなるまいぞ」
 不破敬次郎は、保之助の返盃を受けながらいった。
 「いかに優れたる事業であろうとも、おのれひとりでやれるものではない。かような優秀な人材があればこそ、初めて事は成る。くわえて忘れてならぬは、砥用郷の多くの百姓たちの力である。かの者たちは、いかなる困難や重労働にも嬉々としてとりくんでおる。やればやるだけ自分たちの暮らしが、楽になることがわかっているからじゃ。みながひとしく幸せになれることが、喜びであればこそのことではあるまいか」
 不破敬次郎は脇息にもたれて、赤くした目蓋の目で保之助をみた。
 「ご郡代より直々に、わたくしのような若輩者にありがたきお話を賜りましたこと、終生肝に銘じ、決して忘れることはありませぬ。伏して御礼申し上げます」
 保之助は、その場に平伏した。
 不破敬次郎は、ふたたび保之助にむかって手をふった。
 「ああ、よいよい。無礼講ゆえ、堅苦しことは無用じゃ。みなのものにも苦労話を聞くがよかろう。三隅丈八、保之助に話をしてとらせ」

 砥用惣庄屋三隅丈八は、笑顔で保之助をさし招き、盃をわたした。。
 「保之助どのは、惣庄屋が手永の長であるゆえ苗字帯刀を許され、格式もあり権限も強いが、またその職責も重いのはご承知でござろう。藩よりのお達しや年貢割付けおよび取立てはもとより、郷内のあらゆることに目配りせねばなりませぬ。また郷民の福利民福のために、責務を果たさねばなりませぬ」
 三隅丈八は、保之助が干した盃を受けた。
 「いま柏川井手の完成を目前にひかえ、その責務を果たすため、次なる仕事の準備にかかっておりましてな」
 「それはまことでございますか」
 と保之助は、おどろきの声音をひびかせていった。
 「保之助、そんなに驚くことはない。それが惣庄屋というものだ」
 破顔して可笑しそうに声をかけたのは、三隅丈八の隣に座を占めた山支配役篠原善兵衛だった。
 篠原善兵衛は、三隅丈八にとって敏腕の補佐役であった。文政三年(1820年)三隅丈八が松山手永惣庄屋に転出後、二十四年をへだてて砥用手永の惣庄屋になるのである。
 篠原善兵衛の祖は、阿蘇家の家老職であった丹後守惟義である。元亀二年(1571年)益城郡砥用の馬入城に移り、二百町を領した。惟義没後、弟が宗基となり篠原善兵衛を名乗り、嫡子友吉から六代続けて砥用惣庄屋をつとめた。
 第十三代目となる篠原善兵衛惟次は、時習館教授(学長)であった高木紫溟(しめい)に師事し、学問を修めた。極めて聡明で実行力に富む篠原善兵衛は、また詩歌にも優れ、歌集を残している。 「篠原どのとは、とくに親しいお付き合いをさせていただいておりましてな。此たびの仕事も新井手と同様、わたくしの片腕としてご助力いただいております」
 三隅丈八は、盃を手にしたまま、隣の篠原善兵衛をかえりみた。
 「失礼をお許しくださいませ。あれほどの大事業をなされた三隅さまが、息つく暇なくつぎなる仕事にとりかかられると聞き、おどろきましてございます。されば、そのつぎなる仕事とは・・・」

 三隅丈八が語るには、激流の緑川に、渡り三十間(54m)、幅十二尺の無柱式木橋を架設し、渡船のみに頼る交通の不便を解消する計画であるという。緑川は激流に加え、少しの雨でも水かさが増し、上流から大木や大石が流れてくるので、川中に支柱を立てた普通の橋では役に立たないのである。
 三隅丈八の心覚え帳「自分手控」によれば、緑川の増水により、ときには二十日も舟が出せず、産婦や急病人も間に合わず、親の死に目にも会えず、このため緑川をへだてては縁談もまとまらないという。役人も急用の際は、矢文をつかわなければならないほどであった。
 緑川架橋は、住民すべての悲願であった。
 文政二年(1819年)九月五日、三隅丈八は、わずか一か月足らずで難工事を終えるのである。悩まされてきた緑川筋の多くの人びとが、加勢にかけつけた結果の架橋完成であった。

 保之助はよばれて、大工棟梁伴七の前に席をうつした。
 保之助のみるところ、伴七は大工棟梁というより学者のような風貌であった。痩身にして温和な雰囲気を漂わせていた。まさに学究の徒をおもわせる人となりだった。
 伴七は、保之助の印象どおりの人物であった。向学心に燃える伴七は、長崎で蘭学を学んだ肥後藩士池部啓太に教えを乞い、測量術および天文暦学を学び、目録皆伝を受けている。伴七はのちに、山見締役に仰せつけられ、在勤中の文久二年(1862年)地士に取立てられて「苗字御免」となり、茂見伴右衛門と称するようになるのである。その二年後、帯刀を許されている。
 「お父上のことは、噂で知っておりましたぞ。一度、その精密な矢部の地図をみてみたいものとおもっておりました」
 と、伴七は日焼けした顔をほころばせた。
 「左様でごいますか。つぎにまいりますとき、かならず持参してまいりましょう」
 と、保之助は請けあった。
 「ところで、お教えいただきたいのでございますが、柏川井手の下り勾配はいかほどでありましょうか」
 保之助の頭には、矢部郷の轟渓谷に架ける水道橋に水を運ぶ井手のことが浮かんでいたのである。
 「それは、千尺に対し一尺の下り勾配にしております。これ以上勾配が急になれば、水の勢いが増し、当惑谷に架かる石橋の伏樋に大きな水の力がかかり、危険が予測されましたゆえでございます」
 「なるほど、左様でございましたか。千尺に対し一尺の下り勾配・・・これはいうまでもなく、伴七どのがおつくりになった測量器で測量されたのでございましょうな」
 「そのとおりでございます。よろしければ今宵は、峙原村(そばはらむら)の寓居にお泊りくださいませ。そうなされば測量器も天球儀もご覧いただけます」
 「ぜひにもお願いいたします」
 と顔を紅潮させて、保之助は伴七にあつく礼をのべた。

 保之助は、伴七の隣に端座する石工棟梁三五郎の前に膝をすすめた。
 「布田保之助でございます。三五郎どのにお目にかかれるのを心待ちにしておりました」
 と保之助は両手をつき、三五郎に笑顔をむけた。
 「おやめください。わしは一介の石工でござります。どうかその手をあげてくださりませ」
 三五郎があわてて膳から身をのりだし、保之助の手をとった。
 その三五郎の手は大きく、指は太く逞しかった。修行の厳しさに耐え抜いてきたことを、無言の裡に物語っていた。
 「お近づきのしるしにまずは一献」と三五郎が盃をさしだし、保之助が「頂戴いたします」とそれを受け、酒杯のやりとりが二人の若者の間で幾たびかかさねられた。
 「さきほどみてまいりましたが、保之助、雄亀滝橋のでき栄えに圧倒され、心底感服いたしました」
 干した盃を脇において、保之助は三五郎を見、つきましてはお願がございますとことばをつづけた。
 「このたび砥用にまいりましたのも、三五郎どのにお頼み申したきことあってのことでございます」
 保之助は、背筋を伸ばして威儀を正した。
 「矢部郷にも、めがねをお望みとか」
 と、三五郎がいった。
 「左様でございます。矢部の白糸台地と申すところは、三方に川を抱えながらも、深い谷にはばまれて水源がありませぬ。それゆえ荒野のように荒れはてた山の傾斜地を棚田にして耕したわずかな田もほとんどが下田ばかりで、頼りとする畑も日照りがつづけばひえや粟、蕎麦さえ育たぬしまつです。村の人びとは飲み水にも不自由いたしております。かように白糸七か村の窮乏ははなはだしく、出稼ぎでなんとかその日その日をしのいでるありさまです。父市平次も叔父太郎右衛門も、この惨状を打開せんものと心をくだきましたが、谷に水をわたす橋の手立てがつきませず、その夢を私に託したのでございます」
 保之助は後ずさりし、両手をついた。
 「どうか、私が惣庄屋になりました暁には、ぜひ矢部の轟渓谷に架ける、あのように骨太で強固な石橋をつくっていただきたいのでございます。布田保之助、伏して願い奉ります」
 保之助は、畳に額をおしつけた。
 三五郎も、前に置かれた膳をうしろにさげ、両手をついた。
 「ありがたきおことば、三五郎いたみいります。まだ力およばぬところもございますが、そのときがまいりましたならば、かならずやお力になりましょう」
 と、三五郎は力強くいった。
 「ほんとうでございますか」
 と額をあげた保之助の目は、喜びにかがやいていた。

 「しかしそのためには、前もってなさねばならぬことが多々ございます」
 と、体をもどして端坐した保之助はいった。
 「まずは工事のための莫大な資金を用意せねばなりません。さらにその工事を支える最大の夫役(ぶやく)を矢部郷七十六か村の衆にあおがねばなりません。それゆえこの二つをつつがなくおこなえる算段が肝心であります。お上からお金を借りるにしても矢部郷の村民に夫役を乞うにしても、この大事業を納得していただく事前の手立てが大事かと心得ます。
 私が惣庄屋になりましたならば、叔父太郎右衛門がやっておりますように矢部郷七十六か村の隅々まで目配りし、土木・利水事業に精をだし、あらたに茶や桑、はぜなどの殖産も奨励して矢部郷の富の蓄積をはからねばならぬと覚悟しております」
 「まことそのとおりでございましょうな」
 「ご存じのとおり新田開発によって得ました利益は手永会所(役場)の蓄えとなります。その管理は惣庄屋にまかされておりますゆえ、蓄えた資産を架橋の資金として使用するつもりでおります。
 そのうえ米の増産や殖産興業によって村の人びとの暮しが豊かになれば、その功をみとめてお上は快く資金をお貸しくださるでしょうし、矢部郷の村人には喜んで夫役を受けてもらえるだろうとの心づもりでおります」
 「なるほど。布田さまはもうそこまでお考えになっておられますか。これはもう布田さまの生涯をかけた一大事業でありますな。三五郎、心底より感服いたしました。この仕事、手前のほうからぜひともお願い申しあげたく・・・」 と三五郎が両手をつこうとするのを、保之助はあわてて押しとどめた。
 「いけません、三五郎どの。私はまだ惣庄屋代役にもなっておりませぬ若輩者。そのように石工棟梁三五郎どのに両手をつかれては私の立つ瀬がございません」
 「わしはなにほどの者でもありません。石工三五郎が布田さまの心意気に感じいり、ぜひとも布田さまの企てにお加えいただきたいとの一念から発しましたこと、だれにも批難される筋合いはございません」
 「わかっております。三五郎どののお気持ちはじゅうぶんありがたく心から感謝いたしております。それゆえ両手をおつきになるのはおやめになってくださいませ。この仕事は矢部郷すべての村の衆のため、ひとりびとりが汗と涙をともにして成就する仕事にほかなりませぬ。ゆえに事をはじめるまでに、いましばらくお待ちいただかなければなりません」
 「じゅうぶん承知いたしております。わしのことは心配ご無用に願います。三五郎、ときがくるまでお待ち申しあげます。腰をすえて心おきなく村のことどもに精をだされませ」
 そう言った三五郎の両手を、保之助はかたくにぎりしめた。

 桜の花びらがときおり、ひとひらふたひらと舞い散る春の宵であった。
 二人の若者は、かたく約束を交わしたのであった。
 だがその約束は果たされることはなかった。嘉永四年(1851年)、薩摩から精魂つきはたして種山村にもどった二年後、岩永三五郎五十九歳で亡くなるのである。
 通潤橋完成の三年前であった。





  深 山 石 楠 花

 その夜保之助は、峙原(そばはら)村の大工棟梁伴七の屋敷に泊った。伴七の妻女に案内された客間の座敷には、すでに床がのべられていた。飲み疲れた保之助は、部屋の行燈を消して床にはいり、そのまま深い眠りについた。
 明け方であった。
 薄明い障子が音もなく敷居を滑って開き、軽い足音が衣ずれの音とともに、しのびやかに保之助の枕元をかすめて床の間のあたりでとまり、コトリと小さな音を立てたとおもう間もなく、ふたたび、枕元の畳にしのびやかな足音をつたえて廊下に出、静かに障子が閉まった。女性にちがいあるまいが、誰であろうと、薄い意識のなかでおもったが、保之助はそのまま眠りに身をゆだねた。
 目が覚めた。保之助は身をおこし、床の間をふりかえった。唐物の山水画の掛け軸のかたわらに、昨夜はみえなかったものがみえた。青い孟宗の一節を切って花器にしたものへ、花の小枝が三本、投げいれてあった。花は深山石楠花(みやましゃくなげ)である。凛と張りつめた朝の空気のなかで、石楠花の小枝に薄紅(うすくれない)に染められた小輪の花が群れて大ぶりな花をなしたものが五つ六つ、あわあわと息づいている。
 朝露に濡れた深山石楠花の小枝を切りとり、竹の器に活け、明け方はやく、そっと床の間に飾ったひとは、どんなひとかとおもってみた。だが、男がひとり眠る座敷にしのびいるとはなんと大胆な女性かと、保之助は胸の裡で独りごちた。
 
 保之助は厠(かわや)へ立った。次いで井戸端で顔を洗い、もろ肌脱ぎになって体を拭いた。井戸のかたわらに深山石楠花が一群れ、朝日に照りかがやいている。
 「こちらでございましたか」
 と背後から、伴七の声がした。
 歩みよった伴七は、小腰をかがめて、保之助と朝の挨拶をかわした。
 「深山石楠花が、じつにきれいですね」
 保之助は、衣服を整えながら伴七に笑顔をみせた。
 「いまが盛りでございます。庭のいたるところで咲いております。娘の志乃が、ことのほか深山石楠花が好きでございまして」
 と伴七が、相好をくずした。
 「娘御がおられるのですか」
 と、保之助はたずねた。
 「はい。志乃と申しまして、今年十六になります。昨夜は夜も遅うございましたから、ご挨拶は遠慮させていただきました。のちほど、ご挨拶に連れてまいります」
 「そうでしたか。今朝床の間に深山石楠花が活けてありましたので、どなたかとおもっておりました」
 「また志乃が、そのようなことをいたしましたか。どうも躾が悪くて、申しわけございません。おもったことはすぐ行動にうつす性質の娘でございまして、私どもも困っております。どうかおゆるしくださいませ」
 と伴七は、ひどく恐縮の体で頭をさげた。
 「いえ、私は少しも困っておりません。むしろおもてなしの心を嬉しくおもっております」
 そういって保之助は、まだみたことのない娘のためにとりなした。

 保之助は、客間で伴七の妻女の給仕で朝餉をおえて、茶を飲んでいた。廊下に面した障子が開けはなたれており、どこからともなく鶯や小鳥の声がいり乱れて聞こえてきた。深山石楠花が、あちらこちらと艶やかに咲き誇っているのが目にあざやかだった。 
 しばらくすると、廊下をわたって伴七がやってきた。娘をともなっている。眉濃く、目鼻立ちがはっきりしている。とくに目に力があり、意志の強さが感じられた。今朝早くしのびこんできたのはこの娘にちがいないと、保之助は得心した。
 「山の中でご馳走というほどのものもありませず、おゆるしくださいませ」
 伴七は、客人の前に座ると、両手をついて頭をさげた。それから座敷の障子のかたわらにたたずむ娘をふりかえった。
 「これ、こちらに来て、保之助さまにご挨拶しないか」
 娘は、それまでみせていた保之助の品定めをするかのような目を伏せて、父親のそばに歩みより、さっと右手で振り袖の裾をはらってすわり、ふたたび保之助に大きな強い目をむけた。
 「これが先ほどお話しいたしました、娘の志乃でございます」
 と伴七は、満面の笑みをみせた。そしてほれと、娘をうながした。
 「お初にお目にかかります。伴七の娘、志乃と申します」
 と娘は両手をつき、恥じらう様子もなく、はきはきと挨拶をのべて軽く辞儀をした。 
 並みの娘のふるまいとは、はるかにちがっていた。しかし保之助は、少しも悪い心持はしなかった。むしろ好意さえ覚えたのである。
 たしかな自分の意志を持って、自分の決めた道を歩いていくにちがいない。そう感じさせるものが娘にはあった。
 保之助がとっさに悪戯心をおこしたのは、なぜであったろう。
 「今朝ほどは、はやくに床の間に花を活けていただき、ありがとうございました」といったのである。
 「お目覚めでございましたか。であれば、その場でいまのおことばを聞きとうございました」
 と志乃は、みごとにきりかえした。
 保之助は、声をあげて笑ってしまった。物おじせず、おもったことをそのままいってのける娘が、好もしかったのである。
 「まいりました。志乃どののおっしゃるとおりです。私がばかなことをいってしまいました。おゆるしください」
 保之助は、いさぎよく頭をさげた。
 「いいえ、私のほうこそ悪いのでございます。あんな女らしからぬことをしてしまって」
 と志乃が、急にしおらしく謝ったのである。
 伴七夫婦は初め、あっけにとられてふたりのやり取りを眺めていたが、やがて頬をゆるめ、満足げな様子であった。

 伴七は、母屋のはずれにある作業小屋に保之助を案内した。小屋はいうならば、伴七の研究室であった。さまざまな工作器械や器具が、整頓されてならべられていた。いくつかの測量器具と天球儀が、大きな作業台に置かれていた。
 「これが昨日お話いたしました測量器具と天球儀でございます」
 と伴七が、保之助をふりかえっていった。
 保之助は、父市平次が使用していた測量器具をたいせつに保管していたが、伴七のそれとはおおきく異なっていた。みたこともない、まったく新しい形をしているのである。保之助は、同じものをつくってもらいたいと切にねがったが、口にはできなかった。
 伴七は、壁にしつらえた本棚から一冊の本をとりだし、保之助にみせた。測量器具の解説をした蘭書の翻訳本であった。伴七がみずから長崎へおもむき、オランダ通詞猪俣伝次衛門に乞うて、手にいれてもらったという。
 「これを参考に、自分なりの創意工夫をくわえてつくったものでございます」      
 保之助は、伴七の知識欲、行動力そしてそのアイデアに敬服した。
 「地図を作製する場合、この天球儀をもとに」
 と伴七は、保之助にそのふしぎな骨組みのくるくる回る装置を手わたした。
 「実際の天空の星をはかり、緯度の測定に役立てるのでございます。地図には、正確な緯度を知ることが必要でございます」
 「なんとすばらしい。これらの器具をつかって、柏川(かしわごごう)井手の地図をおつくりになったのですね」
 「左様でございます。井手の勾配をきめるときは、実際に井手の小型(模型)をつくり、水を流して水の走りを観察いたしました」
 伴七はその小型を、小屋の隅から持ちだしてきた。それは、四角い木製の雨樋の片面をのぞいたようなものであった。徐々に下り勾配を変化させることができる細工がしてあった。理論を実験によって確認する態度は学者のそれである。保之助は感服してしまった。
 のちに通潤橋を建設する際、保之助は伴七にならい、吹上樋の実験を繰りかえしおこなって理論の実証に努めている。
 「今日は午後から、釈迦院の上のほうにあります馬門(まかど)あたりまで下見にまいりますが、保之助さまは、いかがなされますか」
 と、伴七がたずねた。
 「下見と申しますと、さらなる井手でも予定されているのでございますか」
 と保之助は、怪訝な顔をした。
 「左様でございます。三隅さまは、いまの井手を馬門(まかど)あたりまでのばし、新田の開墾を予定の三十五町歩から六十五町歩まで広げたいお考えでございます」
 保之助は、惣庄屋三隅丈八の遠大な計画と飽くなき事業欲に、惣庄屋とはかくあるべきかと感じいり、伴七の供を申し出た。
 ちなみに三隅丈八ば文政三年(1820年)三十七歳のとき、松山手永の惣庄屋に転出し、密集した小漁村である宇土郡松合村の堤防を三町ほど延長して住宅疎開用の干拓地十三町六反をつくっている。この松合村は再三にわたって大火を出しており、三隅丈八は当面の生活救済と将来の対策として干拓をおこなったのである。しかし漁民たちが熱心に移住を勧める三隅丈八のことばに躊躇している間に、文政十二年ふたたび大火に見舞われ、二六九戸が焼失した。それでやっと漁民は移住を受けいれ、その地を救の浦新地と称するようになった。
 
 保之助はその日から5日間、伴七にともなわれて砥用(ともち)の里をめぐり歩いた。その間、伴七から井手のつくりの説明、測量の手ほどき、絵図面の引き方など、懇切な指導を受けた。推薦を受け、来年藩校時習館に入学を予定する保之助にとって、このような実地教育は得難い経験であった。そしてまた伴七は、優秀な教師でもあった。
 柏川井手の完成はまじかであった。それにあわせて新田の開墾がはじまり、古田(こた)の土地改良がなされていた。そこに働く村人たちは、いきいきと活動していた。はたでみていてもその喜びがつたわってくるのである。五人組を一単位としてグループをくみ、井手の開削と新田の開墾、ならびに古田の土地改良にそれぞれふりわけられ、各事業に従事するのである。
 勧農富民が、藩が郡代と惣庄屋に課した最大の責務である。これによって、年貢米の増大と確保をはかることができるのである。一方農民たちは、働けば働くほど自分たちの暮らしがよくなることを、日々の労働をとおして実感した。
 保之助は、砥用郷での五日間、藩の政策と、それにしたがって計画を立て実行する郡代と惣庄屋の働き、そして最前線で働く農民たちの気持を学習したのであった。

 夕闇がせまるころ、いつものように保之助と伴七は、空になった弁当箱をたずさえて峙原村にもどってきた。明りの灯った屋敷の入り口で、伴七の妻女と志乃の出迎えをうけた。
 「お疲れでございましょう。お風呂の支度ができております。どうぞ保之助さま、おつかいくださいませ」
 と志乃が、保之助の荷物をうけとっていった。この五日間、毎回志乃は同じことばをくりかえした。
 保之助と伴七は裏へまわって、井戸端で顔と手足を洗い、保之助は用意された庭下駄をつっかけて、湯殿へむかった。湯殿は母屋の一番端にある。湯殿の裏戸からなかに入り、乱れ箱に衣服を畳んで入れ、湯船につかった。首までつかって目を閉じると、一日の疲れがぬけていくのがわかった。
 明日の朝は、いよいよ矢部に帰るのである。それをおもうと、たちまち寂しさが体中にしみわたった。この五日間というもの、志乃の面影が保之助をとらえて離さなかったのである。
 乱れ箱が、小さな音をたてた。いつものように志乃が、保之助が脱いだものと着替えの浴衣とをとりかえにきたのである。保之助はあらぬほうを見ている。昨日までは、志乃はそのまま下がっていった。
 が、今夜はちがった。
 「お背中を、お流しいたします」
 と志乃が、着物のたもとをたすきがけにし、裾をからげて洗い場にはいってきたのである。
 「いや、自分でやれるので結構です」
 と保之助は、少々あわて気味にこたえた。
 「いえ、わたくし、保之助さまのお背中をお流しいたしたいのでございます」
 と、否応言わせぬ調子で、志乃がいう。
 「それは困ります。若い女性の前で、裸をさらすのは困ります」
 と保之助は、さらに抵抗した。
 「その若い女が、一大決心して申しましたこと、いまさら退くことはできませぬ。こちらにお出でくださいませ。わたくし、あちらをむいておりますから」
 と、有無を言わせぬ決意の、志乃である。
 「ならば、志乃どののお気のすむように」
 保之助は覚悟をきめ、湯船から出た。
 志乃に背中をむけて、保之助は板張りにあぐらをかいた。志乃は手桶に湯船の湯をくみとると、保之助のうしろへまわり、手桶に手拭をつけてかるく絞った。志乃の左手が、保之助の左肩にかかり、右手の手拭でごしごしと背中をこすりはじめた。保之助は、少し体を前かがみにして、志乃が洗いやすいようにした。志乃の柔らかい手が、肩をつかんでいる。こするたびにその手に、力がこもるのである。志乃の息遣いが、背中にかかるような気がする。
 何をおもってこのようなことをするのであろうと、思案してみるが、若い保之助はただおもいわずらうばかりで、埒(らち)があかないのであった。
 志乃が、保之助の背中に手桶の湯をかけ流した。そしてふたたび腰をかがめ、うしろから保之助の肩に両手をかけた。
 「わたくし今宵、保之助さまの寝所へまいります」
 切羽詰まったような、志乃の声音であった。そしてひらりと身をひるがえして、湯殿から走りさったのである。
 保之助は、ぼう然とした。
 志乃のことばを予期していたようでもあり、そうでもないような気がする。
 埒を越えるべきか、越えざるべきか。保之助のこれまでの人生で最大の難問であった。

 保之助は、夕餉の膳についた。食客になった日の翌日の昼から、四人そろって食膳をかこむことになったのである。志乃の発案であるらしかった。
 今宵も座敷に、むかいあわせに膳が四つならんでいる。伴七夫婦を前に、保之助と志乃がならんですわっている。保之助は、つくづく志乃とむかいあわせでなくてよかったおもった。今宵ばかりは、志乃の顔をみて食事をすることなど、とてもできそうになかったからである。だが、今夜が最後の夜である。疲れたからと口実をもうけて、早々に客間に逃げこむわけにはいかないのである。
 保之助は、伴七夫婦の今日までの手あついもてなしに、深い感謝のことばをのべた。そのあとは、志乃の酌で盃を干し、伴七夫婦の話ににこにこと笑顔でこたえるばかりで、自分から話をする余裕などまるでなかった。いくら飲んでも、酔わなかった。
 酌をする志乃も、保之助をみることはなかった。そして一言も口にしなかった。
 席を立つ前に保之助は、ふたたび伴七夫婦にあつく礼をいった。またお出でください、いつでもお待ちしておりますという二人のことばに送られて、保之助は客間にもどったのであった。
 
 保之助は床に横になったが、眠れなかった。志乃を迎えいれるべきか否か、まだきめかねていたのである。だが、体の芯は熱く燃えていた。輾転反側しながらも、たえず耳は夜のしじまのかなたをうかがっていた。
 障子が、音もなく開いた。
 足音をとらええなかった保之助はおどろき、布団をはねあげて身をおこした。月光を浴びた志乃の姿が、白い深山石楠花のようにみえた。胸の前に、箱枕をかかえている。
 「保之助さま、わたくしまいりました」
 と志乃が、立ったままいった。声を低めながらも、決然としたひびきがあった。
 その声が、保之助の理性を退けた。
 愛おしさが、怒涛のようにおしよせてきたのである。
 保之助は立って志乃のかたわらにより、かたく志乃をかきいだいた。
 「保之助さま、そんなに強く抱きしめると、胸が痛とうございます」
 志乃が、耳元でささやいた。
 保之助は、はっとして体を離した。志乃は、胸元に箱枕を抱えたままだった。志乃が、くすりと笑った。保之助の極みにあった緊張がふっと消え、保之助も声をださずに笑った。そしてそっと障子を閉めた。
 
 白い夜着を着けた志乃は、布団の上に膝を折ると、保之助の枕の隣にかかえてきた箱枕をならべた。そうして静かに横になり、枕に頭をあずけ、目をつむった。




  藩 校 時 習 館

 時習館は、宝暦四年(1754年)、細川藩第八代藩主細川重賢(しげかた)が、宝暦の改革の一環として、藩庁役人の人材育成のために設立した藩校であるが、軽輩、陪臣、庶民の子弟でも、学力優秀な者は推薦によって入学がゆるされた。そして家臣や領民ばかりではなく、藩外へも広く門戸をひらいたきわめて開放的な学校であった。
 おもしろいのは、無料とした学費のねん出方法であった。玉名の浜を干拓し、新田をひらいて学校新地とし、田畑からの収入を用いて学校経営をしたのである。
 重賢はまた、医学校再春館も創設している。教授は盲目の医師・村井見朴であった。
 時習館での教育は、まず四書五経をもって初めとした。とくに論語が重んじられ、時習館の名はそのなかの、「学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」からとったものである。
 他方武術は、時習館のそばに東?(とうしゃ)、西?(せいしゃ)の二道場をもうけ、武芸の師について剣術、槍術、馬術などの修練にはげんだ。
 初代総教(総長)に細川内膳家当主長岡忠英をすえ、江戸の朱子学者秋山玉山を教授(学長)に迎え、朱子学を中心とした教育がなされた。これは重賢の急激な改革への反発を緩和するねらいと、文武両道の武士教育の意味合いがあった。時習館では朱子学や軍学、漢学、史学、算術、芸術などあらゆる学問を一流の教官たちから学ぶことができた。教育期間は三年を一期とし、とくに問題がなく希望すればそのままつづけることができた。
 
 時習館句読斎。
 矢部の山猿、と呼ばれた。
保之助のことである。
熊本城二の丸にある時習館での初日であった。
 藩士子弟である何某が、保之助を指さして嘲笑したのである。
 「矢部の山奥から、山猿が出てきおった」
 そのとき横井小楠がすっくと立ち、きっとその男をにらみすえた。つぎには保之助にかわって、あざやかに返報してみせたのである。
 「燕雀~ いづくんぞ~ 鴻鵠の~ 志を知らんや~」
 と、小楠がたかだかと吟じた。
 男は恥いって、身をちぢめてしまった。だが以後も、陰では相変わらず保之助のことを山猿呼ばわりしていたが、女子と小人は扱い難しと、保之助は無視したのであった。
 保之助は立って小楠のもとへ行き、頭をさげてあつく礼をいった。
 「いえ、礼をいわれてはこちらがいたみいります。旧弊な士分の者たちのたわ言と、笑い捨ててください」
 と、小楠は小さく笑った。
 「と申しますと・・・」
 保之助は、合点がいかなかった。
 「布田どのは、阿部一族の乱のことはご存じであろかとおもいますが」
 といって、小楠は、初代藩主忠利と藩士阿部弥一右衛門との悲劇について話しはじめた。
 「あの根底にあったものと同様なことです。阿部家当主であった阿部弥一右衛門は、元豊前国宇佐郡山村の惣庄屋でした。忠利公肥後入国直前に三百石をもって召し抱えられ、山村姓を捨てて阿部を名乗り、忠利公病没の際には、千百石取りの大身にまで出世していました。
 藩士の間では、惣庄屋は蔑視さるべきものとの風潮がありました。惣庄屋上がりの千百石取りが、なぜ亡き殿のあとを追って腹を切らぬと、後ろ盾を失った忠利公御取立の人が報復を受けたあげく、あのような悲劇をまねきました。
 矢部惣庄屋の甥御である布田どのも、同様のさげすみをうけたというわけです」
 「なるほど、左様でしたか。しかし阿部弥一右衛門どのは、よほど忠利公の寵愛をうけておられたのですね」
 「その表現は適切とはおもえません。忠利公は、聰明な名君でした。人物評価は丸裸の本人のみ、それにまつわる家柄や身分、あるいは前例などといったものにはとらわれず、広く優秀な人材を求め、人柄に適した役職を与え、重用しました。
 そんな藩公御取立人の一人であった阿部弥一右衛門は、優れた留守居役でした。定められたことを遂行するだけの消極的な役人ではなく、積極的に藩主に建策し、用いられた策を藩内に押し広げるなどして、実績を積みあげた人物です。たとえば、当時あふれかえっていた浪人たちの対策を建言し、その政策としての地筒(じつつ)仕立て(屯田兵養成)を、弥一右衛門みずからが手がけました。
 忠利公は病に斃れる数日前、鷹狩の帰りに、わざわざ弥一右衛門の屋敷によっておられます。君臣の間に、公私にわたってなみなみならぬものがあったと推察されます」

 保之助がこうして時習館で初めて横井小楠と会ったのは、小楠が十歳、保之助が十八歳であった。
 それ以来保之助と小楠は、歳の差を越えて親しく交わるようになった。実際小楠は、歳の差など感じさせなかったのである。保之助など、はるかにおよばぬ学識を有していた。
 講義において、助教や訓導そして句読師らに鋭い質問を浴びせかけ、ときに教官たちをたじたじとさせることがあった。そんな小楠を眺めながら保之助は、小楠はいかなる鴻鵠の志を抱いているのであろうかとおもった。だがさすがに保之助は、十歳の小楠にそのことをたずねるのははばかられたのであった。
 「経国の志を興し、他日国事の振興に当たらん」
 小楠が十三歳のとき、親友の下津久馬と誓いあったことばである。ここに小楠の、幕末の優れた政治家・思想家としての萌芽をみることができる。
 横井小楠は通称を平四郎といい、諱(いみな)を時存(ときひろ)と称し、のち小楠、沼山と号するようになる。
 文政六年(1823年)十一月、十五歳の小楠は句読、習書、詩作などに優れたる者として金子二百疋が下賜され、同年十二月、十一代藩主細川斉樹(なりたつ)に御目見えをゆるされている。
 前述したように小楠は、天保四年二十五歳で居寮生に選ばれている。そして四年後の天保八年、居寮長に抜擢される。このころから小楠は、本来の朱子学からはずれ、もっぱら訓詁や詩文などに重きをおく時習館教育に不満を抱きはじめるのである。
 時習館教育の責任者となった若い次席家老長岡監物は、そんな居寮長横井小楠とかたらって時習館改革をこころみ、学問的レベル・アップをめざして、朱子学の本領である実践躬行(きゅうこう)の影の薄れた教育内容の変更や、選抜入寮制への移行などの改革を二度はかったが、学校党を率いる家老松井佐渡一派の巻き返しによって二度とも失敗している。

 小楠の話をつづけたい。
 横井小楠は、時習館教育が組織的な、権威主義的・保守的な学校党に変容する状況を批判し、現実に対応する何らかの能動的な学問を主張し、それを実学と呼んだ。小楠の実学思想は、すさまじい量の読書で得た新しい知識と時勢との複合作用によってたえず拡大発展し、しだいに高次元のものへと変貌していくのである。
 天保十年(1839年)小楠は藩命により江戸に遊学し、ケンベル著「鎖国論」を読んだ。酒癖のある小楠は「酒失事件」をおこし、翌年帰藩、七十日間の蟄居謹慎を命じられる。
 小楠はこれまでの「人の為」の学問を反省し、「自分の為」の学問の構築を決意し、国学者林桜園の原道館に入門した。そして次席家老長岡監物、盟友荻昌国、元田永孚(ながざね)、下津久馬らと会読会をかさねて実学党を結成し、私塾・小楠堂を開塾した。
 宮部鼎蔵と同門となった小楠は、朱子学を志す者は武術の達人でもなければならないとして小楠堂の門弟たちをひきつれ、宮部塾道場に通っていた。実学党を率いる小楠は、攘夷の一点で林桜園、肥後勤王党領袖・宮部鼎蔵と結びついていたが、黒船来航以後しだいに開国論にかたむき、鼎蔵と決別し、朱子学をのりこえた新しい「小楠実学」を構築するのである。
 「横井の本来立てている趣向は、孟子によったもので、何でも民のため、国を治むるは民のためという本体を立てて主義とした人である。例えば道路を拓き、水利を通ずる、みな政治の眼目であるけれども、これは民のためであって、君のためでないという論旨であった。つまり君を立て政をなす、みな民のためという」と、のちに宮内省に出仕して明治天皇の侍講となった元田永孚はのべている。
 そのうえで小楠は、近代共和制に準じる戦争と貧困を克服した中国上古の理想社会・堯舜三代の治道の原理である公共の道をグローバライズすることを、幕末という封建時代の終末期にたかだかと公言するのである。
 「天地の気運と万国の形勢は人為を以て私する事を得ざれば、日本一国の私を以て鎖閉する事は勿論、たとひ交易を開きても鎖国の見を以て開く故、開閉共に形のごとき弊害ありて長久の安全を得がたし。されば、天地の気運に乗じ万国の事情に随ひ、公共の道を以て天下を経綸すれば万方無碍にして今日の憂る所を惣て憂るに足らざるに至るべきなり」
 小楠は、一国のみの国益をしりぞけて公明正大な仁の心に立つ道義的世界である「公共の道」をグローバルに実現することを望んだのである。
 慶応三年(1861年)小楠は二人の甥に西洋技術の修得を目的としたアメリカ密航を勧め、はなむけに漢詩をおくるのである。
 「堯舜・孔子の道を明らかにし、西洋器械の術を尽くす。何ぞ富国に止まらん。何ぞ強兵に止まらん。大義を四海に布(し)かんのみ」
 小楠は、おのれの「実学」思想の正しさを実証、再確認し、世界にその思想を広めるという壮大な構想をこころみようと意図したのであった。

 時習館において保之助は、朱子学が江戸幕府の正学とされ、武家政治の基本理念を形成したことを知った。さらに朱子の歴史的イデオロギーである「尊王蔑覇」、つまり皇帝を尊び覇者をさげすむということが、根本にあることも理解した。この「尊王蔑覇」が、幕末の倒幕運動のイデオロギーに転化したことは、歴史の皮肉である。
 しかし保之助は、実践を重んじ民族の誇りを強調した朱子本来の、学問の本領である実践躬行(きゅうこう)につよく惹かれた。上からの一方的な改革や押しつけでは民衆は動かず、みずからが実践してみせてこそ民衆は理解し喜んで行動をともにすると、保之助は学んだ。「実践躬行」が、惣庄屋の行動理念と認識したのである。

 保之助が入学した二年後、二十八歳の真野源之助が句読師として句読斎で講義することになった。保之助にとって運命の出会いであった。保之助に朱子の実践躬行を説き、上益城郡代そして通潤橋建設の際には奉行・大奉行助勤として助力を惜しまず、くわえてはじめ吹上台目鑑橋と称していたものに通潤橋と命名したのも真野源之助であった。
 真野源之助は家禄百五十石であったが、郡代、奉行副役、奉行、大奉行助勤、大奉行と藩の要職に昇りつめ、千五百石取りの大身となるのである。万延元年(1860年)、死に至ってその職を辞した。保之助は源之助が亡くなるまで交友を絶やさなかった。
 保之助は、この三年間というもの、ひたすら勉学に没頭した。そして漢学、習書、天文測量学などを修得した。惣庄屋に必要な知識と教養の修得であった。
 四年目となる今年の秋、保之助は叔父太郎右衛門から一通の書状をうけとった。
 太郎右衛門にしてはめずらしく、時候の挨拶が省かれ、いきなり「布田家にとりて慶事二つ之あり候」と簡潔な書き出しではじまっていた。一つは来年惣庄屋代役に仰せつけありとの内示があったこと、二つ目は保之助の祝言の日取りがきまったこと、それゆえ時習館での学業をすみやかに終えて、帰郷せよという文面であった。
 
 保之助は、志乃のことを片時も忘れたことはなかった。だが、志乃と結ばれるともおもっていなかった。縁談は親たちがとりきめ、子はそれに従わなければならなかったからである。保之助は、志乃との愛は、若さゆえの苦悩として心の奥に封じこめ、運命にまかせるほかないとみずからにいい聞かせて学問に励んだ。
 しかしいかに覚悟したこととはいえ、祝言がきまった現実を目の前につきつけられたとき、心の奥深く封じこめていたものが、ふたたび胸の奥から吹きあげ、苦悩の雄たけびとなってほとばしり出た。朝日が昇るたびに、愛しき人の影はあらわれ、永遠に消えることはあるまいとうめき悶え、おのれの無力さを呪い、頭から布団をかぶってむせび泣いた。こればかりは十三歳の秀才小楠にうちあけて、わかってもらえるものではなかった。
 出立の前夜、別れの宴で保之助は酒に溺れ、したたかに酔った。翌朝、ひとり城下の寄宿先を発った。友人たちの見送りは無用と、断ったのである。むかうは、砥用(ともち)の峙原村(そばはらむら)であった。

 砥用の里は、惣庄屋三隅丈八の努力の証となる黄金色の稲穂が、大海のうねりを見せてびょうびょうと広がっていた。ながく水不足に苦しみ、苦闘を余儀なくされた村々はいまはよみがえり、田畑に働く村人の顔は喜びに満ち、明るくかがやいていた。保之助には、三隅丈八の安堵の顔がみえるようであった。
 矢部の里も、このような黄金色の稲穂で埋めつくしたいものと、保之助はつくづくおもった。
 懐かしい大工棟梁伴七の屋敷の敷地に足をふみいれた。
 敷地のすぐ左脇に大きな榎が、枝を広げ葉を茂らせている。樹齢百年はかぞえるかとおもわれた。奥に孟宗竹の林が、高く背を競いあっているのが見える。母屋の手前の畑で、腰をかがめて仕事をしていた女衆の一人が、保之助を認めて知らせに走った。台所の竈(へっつい)から立ち昇る煙が薄紫色にうすめられ、秋の夕空に吸い込まれていく。夕餉の支度であろうと保之助は足をすすめた。
 引き戸がおおきく開かれた屋敷の入り口から足をふみいれたとき、走り出てきたのは志乃であった。志乃の顔が上気していた。奥から急いで出てきたためばかりではないようであった。
 「保之助さま」
 式台に両手をついた志乃が、堰を切ったようにはらはらと涙をこぼした。
 「志乃どの、ご無沙汰いたしました」
 保之助は、志乃をつよく抱きしめたい衝動をおさえ、深々と頭をたれた。
 あとから伴七夫婦が、「これはこれは保之助さま」と顔をほころばせて出てきたからである。

 「このたびは、惣庄屋代役のご内示があり、さらにはご婚儀もさだまり、おめでとうございます」
 座敷の床の間を背にした保之助へ、伴七が祝いのことばをのべ、妻女と志乃ともども両手をついて深く辞儀をした。
 「ありがとうございます」
 保之助は礼をかえしながらも、複雑なおもいで志乃を眺めた。
 「矢部に行った丑蔵さんが、知らせてくれました」
 と、志乃がいった。
 先ほどの涙を洗った顔は、しかし目蓋が腫れ、いたいたしいかぎりだった。保之助はただうなずくだけであった。
 「お相手は、満さまとおっしゃるそうでございますね」
 一番話題にしたくないであろう志乃が、そういって話をひろげた。
 じつのところ保之助は、相手の名前もまるで知らなかったのである。
 志乃は可笑しそうにころころと笑い、話をしてくれた。
 満は矢部浜町で商家万屋を営む下田彌平の六女で、阿蘇家の一つである下田権大宮司の家筋であるという。同じ阿蘇家つながりで縁談がすすめられたのであろうと、保之助は合点がいった。
 ちなみに万屋の創業者下田彌平治は、わずか銭三十目七分をもとでに行商をはじめ、近在の零細な農民を相手に雑貨を売りつつ資本を蓄積し、質、貸金、相場といった高利貸金資本への転化と酒造業という高利潤生産業への資本投下によって成功したのである。
 これは下田彌平治が、近世農村が本来の自給自足経済が崩壊をはじめて貨幣経済にとりこまれていく流れをたくみにとらえたためである。下田家はのち、矢部郷で古くから政治的、経済的中心地であった浜町で同じ酒造業者である本備前屋とならんで両替商を営んだ。また大規模な櫨実生産によって櫨蝋生産を唯一の専売制とする肥後藩と深くかかわり、明治期に運命をともにしている。    
 
 保之助、志乃、伴七夫婦の四人そろっての夕餉の膳であった。
 盃を手にして、何年ぶりであろうかと保之助はおもった。はるか昔のような気もした。あの時と同じように、志乃が酌をしてくれ、保之助は盃を干した。もうこのようなことは二度とあるまいとおもうと、口に含んだ酒が苦く感じられた。
 「保之助さま、お流れを頂戴いたしとうございます」
 と志乃が、保之助の盃を所望した。
 おもえば志乃も、はや二十一になるのである。保之助は盃をわたし、徳利をかたむけた。志乃が、ことのほかはしゃいでいるようにおもわれた。
 志乃が干した盃をそのまま保之助にかえし、酒を満たした。保之助は、盃に唇をつけた。体が熱く燃えあがるのをおぼえた。保之助は、志乃を奪ってこの場からどこか遠くへ逃げてしまいたいと心底願った。が、そうする勇気はなかった。封建社会の秩序と安定をこわす者は、社会の爪はじきにされるほかないのである。若い封建人である保之助には、封建社会の壁は越えるにはあまりにも高すぎたのであった。

 保之助が、そっと志乃から体を離した。志乃は闇の中で身づくろいをし、あらためて横になった保之助のかたわらに身をよせた。
 「わたくし、長崎へまいります」
 と志乃が、保之助の腕の中でささやいた。
 「えっ」
 と保之助は、虚を突かれておどろいた。
 あまりにも唐突で、志乃と長崎が結びつかなかったのである。
 「なぜです」
 「蘭学を学んで、蘭方医になるつもりです、何年かかろうとも」
 と、闇の中で志乃は、保之助をみつめた。
 伴七が長崎で蘭書の和訳本を入手する際世話になった、オランダ通詞の猪俣伝次衛門を頼って行くという。それも学婢(がくひ)をするという。学婢とは住みこみの女書生のことである。
 蘭方医といえば、身近にも山鹿の相良村に、西洋医術をほどこす奥山某という者がいると保之助は聞いたことがある。最近では蘭方医もわずかずつではあるが増えつつある。それだけ蘭方医を志す者が多いということであろう。
 女子が蘭方医を志して悪いという法はない。保之助は、志乃のために成功を祈らずにはいられなかった。
 「志乃、そなたならばかならずその道を達成することができる」
 そうささやいた保之助ではあったが、志乃の心根をおもえばいっそう愛おしさがつのった。
 保之助は、狂おしいほどに腕の中の志乃を抱きしめた。
 
 深山石楠花が薄紅(うすくれない)の花をいま一度、闇の底へと散り落としていった。





  天 変 地 異

 文政六年(1823年)の晩秋である。
布田家と下田家の祝言がとりおこなわれた。保之助二十二歳、満十九歳である。
 矢部手永会所惣庄屋役宅の大広間に百目蝋燭を立てまわし、金屏風を背にした新郎新婦をいただく座敷は、真昼のように明るく華やいでいた。
 「高砂や~ この浦舟に帆を上げて~ この浦舟に帆を上げて~」
 朗々たる阿蘇神社下田権大宮司の高砂が、開けはなたれた座敷の外にまでひびきわたってきた。かがり火が闇をとりはらった惣庄屋屋敷の広い庭は、近郷近在から押しかけた老若男女で、身動きがとれないほどであった。そのような人びとにも酒がふるまわわれ、宴たけなわであった。
 
 そのときであった。
 「ゴオー」という不気味な地鳴りが、人びとの足下を大きくゆるがせた。
 「阿蘇の御山がまた鳴ったぞー」
 という悲痛な叫びがあがった。
 浮足立った村人たちが、悲鳴をあげながら、一斉に我先にと逃げだした。
 保之助はかたわらの新妻満を抱きよせ、つぎつぎに押しよせる大きな地鳴りに身構えた。地震にも似た珍しく強い阿蘇の鳴動であった。
 「蝋燭の火を消せ」
 大音声に呼ばわったのは、惣庄屋布田太郎右衛門であった。
 「半鐘を鳴らすように伝えよ」
 と会所役人の一人に命じた。火事にならぬよう、灯火を消す警鐘をつないで、郷内の村々に知らせるためであった。
 阿蘇の鳴動がはじまったのは、一昨年からであった。阿蘇中岳から噴煙があがり、夜空を夕焼けのように染めるのである。噴煙が五、六00メートルほど吹きあがり、火山灰のみを飛散させ、火山弾が飛び交うことはなかった。だが鳴動はおもい出したようにおこり、人びとに不安と恐怖をまき散らしていた。

 翌文政七年、保之助が矢部惣庄屋代役に任ぜられた年に、人びとの不安をあおる出来事がおこった。阿蘇北方に位置する内牧で、大火が発生したのである。
 戦国時代に築城された内牧城が、元和元年(1615年)に発せられた一国一城令によって廃城となったのち、参勤交代の要路に面していたため、肥後藩はその本丸跡に御茶屋(別荘)を建設した。ところが正保元年(1644年)と文化五年(1808年)の二度の大火で焼失し、またもこの年の大火となった。
 内牧の大火は阿蘇噴火の前触れに違いないという噂が、尾ひれをつけて広がっていった。それを裏打ちするかのように、日夜鳴動がつづいたのである。

 満はことのほか、阿蘇の鳴動をこわがった。地面をゆるがす重々しい不快なひびきは、満をとらえて身動きできなくするようであった。
 惣庄屋代役である保之助は昼間、叔父の太郎右衛門の補佐役として、郷内数か所の工事現場をめぐり歩いていた。道路工事、築堤工事、井手掘削と、工事が同時進行していたのである。
 太郎右衛門は、惣庄屋代役に保之助を得て、おおいに事業に意欲的であった。土木工事に精通する太郎右衛門は、新田を開くため菅村の奥にある羚羊川(かもししがわ)から取水して、津賀野まで羚羊井手を引く工事を陣頭指揮していた。谷を埋め、岩をうがちして全長一九七〇間(約2・2Km)を掘った羚羊井手は、文政四年から八年かかって完成している。
 その日仕事を終えて浜町の惣庄屋屋敷にもどってみると、満が台所の竈(へっつい:かまど)の前でかがみこみ、青くなって震えていた。そういえばさきほど強い地鳴りがあったなと、保之助は合点した。
 保之助がかがんで満をかたくく抱きしめてやると、やがて満は落ちつきをとりもどした。そして恥ずかしそうにあわてて保之助から身を離した。義母壽茂や使用人たちの目を気にしてのことであった。
 
 その夜遅く、ふたたび大地が身を震わせて腹の奥底にまでひびく唸りを生じた。
 満が夢中で、保之助にしがみついてきた。保之助は臥所(ふしど)の中で、優しく満を腕の中につつみこんだ。
 「心配いらぬ。わたしがついておる。あまりこわがるとお腹のややがおどろく」
 と保之助は、少しからかい気味にいった。
 今年の松を過ぎたころから、満の悪阻(つわり)がはじまった。出産は、医者の診立(みたて)では、八月ごろということだった。壽茂も太郎右衛門も満の懐妊を知ったとき、ことのほか喜び、市平次の仏壇に祝いの膳をあげておおいに祝った。 
 「わたくしは、感じるのでございます」
 と、満が唇をふるわせた。
 「何を感じるというのだ」
 保之助は怪訝な面持で、抱きしめた満の顔をのぞきこんだ。
 「わたくしの体には、阿蘇神社下田権大宮司さまの血が流れております。下田権大宮司さまは長年月にわたって、阿蘇神社に仕えてまいりました。その尊い霊験は、阿蘇の御山から授かったものでございます。ですからわたくしは、阿蘇の御山を感じるのでございます」
 「阿蘇の御山が鳴動するたびに、感じるというのかな」
 「左様でございます、旦那さま」
 と満はいっそう深く、保之助の懐に顔をうずめた。
 「それでは満は、阿蘇の御山を感じて、何かわかったというのだな」
 保之助は満がいわんとすることが、なんとなくわかるような気がした。
 「はい。それゆえ恐ろしいのでございます」
 と満はいっそうつよく、保之助にすがりついた。
 「どのようなことか申してみるがよい」
 と保之助は、優しくうながした。
 「それは・・・」
 と、満はいいよどんだ。しばらく間をおき、意をけっしたように口を開いた。
 「御山は今・・・噴火の準備をいたしております。二年後にはかならずや大噴火があるとおもわれるのでございます」

 二年後の文政九年(1826年)九月二日。
 満が恐れていた阿蘇の大噴火がおこった。
 運悪く、そのあとを追うように野分(のわき)が襲来した。降る雨は、火山灰混じりの大雨であった。降り積もった火山灰が火山泥流となって、阿蘇谷の村々に襲いかかった。
 つづいて肥後の河川が氾濫した。白川、緑川、菊池川といった肥後の大河の河川整備が追いつかず、たちまち井手や川塘(かわづつみ)の決壊、家屋の倒壊・流失、そして多くの田畑の冠水や流失を招いた。さらに有明海の高潮によって、肥後藩の不知火海干拓地の堤防を乗り越えて海水の浸入をゆるした。
 上益城郡ではただちに、五手永に一万人余の出夫が命じられた。
 この年保之助は、上益城郡井樋方(いびかた)助役兼帯を命じられたばかりだった。郡の水利関係の事業をつかさどる職務を補佐する役目である。火山泥流に飲まれた田畑の回復は、洪水で冠水しただけのものよりはるかに難事であった。火山灰は水を含むと固化し、除去が容易でなっかったのである。そのうえ、再度の噴火を気遣いながらの作業である。
 保之助はわらじの紐をほどく間もないほどに、決壊した河川の塘や井手の復旧作業に追いまわされていた。 
 一方藩による御救小屋の建設がはじまり、義倉が開かれた。天明の飢饉にかんがみ、餓死者が出ることも予想されたからである。
 この年十一代藩主細川斉樹(なりたつ)が没した。
 十二代藩主を受け継いだのは、支藩宇土から迎えられた斉護(なりもり)だった。
 細川五十四万石の危機であった。
 斉護はただちに藩政実務の最高責任者である大奉行に命じ、被災地で蔓延しはじめた疫病の阻止と、決壊した河川の修復を急がせた。

 さらに二年後の文政十一年(1828年)の秋、ふたたび猛烈な野分が九州を襲った。
 後世シーボルト台風と呼ばれ、過去三百年間で最強といわれた台風である。九州西岸を北上しつつ、すさまじい雨と風が九州諸藩に甚大な被害をもたらした。中心気圧900hPa(ヘクトパスカル)、最大風速50m、総雨量300mmと推定されている。九月十七日、長崎出島のオランダ商館付きドイツ人外科医ファン・シーボルトが出島の自宅が倒壊する直前に記録した気圧が、952hPaであった。
 有明海ではまたしても高潮が発生し、八代の広大な干拓地がふたたび潮水に侵された。佐賀藩においては、一万人に達する死者が出た。
 肥後藩飽田(あきた)郡と託摩郡では、大風が熊本城や城下はもとより人家という人家の屋根瓦を飛ばし、大樹を根こそぎ抜き、多くの家屋を倒壊させて人や家畜を圧死させた。白川および緑川、さらに江津湖もあふれかえり、六郡が水没し、大暴風雨の去った後、山から海にいたる数百里の田園はまさに海のようであった。
 矢部手永では、この暴風雨により緑川をはじめとする中小河川が氾濫し、堤が決壊、橋や田畑が流失し、山崩れ、崖崩れ、土砂雪崩がおきた。

 肥後藩ではすでに、同年五月から六月の大水害、八月の大風により損耗高が三十七万石に達していた。斉護が藩主についたとき、肥後藩は八十万両という莫大な借金をかかえていたのである。江戸・京・大坂の両替商に借財返済を断る(つまり借金踏み倒しである。これがたび重なり、貧乏細川と商人たちに嫌われた)など、対策に苦慮している最中に襲いかかった未曾有の大風水害だった。
 そして文政十三年、阿蘇の崩壊があり、同十五年にはふたたび阿蘇の大噴火があった。農作物が火山灰や火山弾によって深刻な被害を受けたばかりではなく、天高く舞いあがった火山灰が太陽をおおい隠し、冷害をもたらした。
 肥後の農民は、相つぐ過酷な災害によって塗炭の苦しみにあえいでいた。
 それはまた、町方の住民にとっても同じであった。災害後の米価をはじめとする諸物価は高騰し、蔓延する疫病と迫りくる飢餓に恐れおののいた。
 天変地異というものは、情け容赦のない無頼漢というべきであった。天保の飢饉が、このあとにつづくことをだれ一人知る由もなかったのである。
 
 天保五年(1834年)二月十一日、布田保之助は惣庄屋ならびに代官兼帯に任ぜられた。肥後藩では延宝八年(1680年)年貢米や雑税を徴収する専任の代官が廃され、以後惣庄屋が兼務することになったのである。保之助、三十四歳であった。
 保之助が惣庄屋に就任したこの時期は、天保の大飢饉のさなかであった。天保四年ごろから冷害が発生し、その後も極端な天候不順がつづき、物乞いや行き倒れがふえていった。天保七年は大飢饉のピークであった。
 同年七月にもかかわらず、富士山は六、七合目まで白く雪をかぶり、中山間地である御殿場では餓死者が出はじめた。
 とりわけ凶作や飢饉の深刻な被害を受けたのは、東北地方(陸奥国と出羽国)であった。とくに仙台藩の被害は甚大であった。実高二百五十万石を越えていたものが、わずか百万石にも満たなくなった。
 餓死者や行き倒れも諸国に満ちあふれていた。江戸でも各所に御救小屋をもうけたが、救済者七十万人以上をかぞえた。
 さらにこの天保七年は、未曾有の大坂米価の急騰が追い打ちをかけ、各地で百姓一揆や打ちこわしなどの大騒動が頻発した。日々百五十人から二百人以上の餓死者を出したといわれる大坂で、天保八年二月十九日大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が窮民救恤(きゅうじゅつ)を掲げて兵をあげた。

 天明の大飢饉の際、餓死者を出さなかったと喧伝された肥後藩(実際は阿蘇郡では二千人からの餓死者が路上に放置されていた)でも窮状はなはだしく、肥後の住民も天候不順に苦しめられた。
 その兆しはすでに天保二年にはじまっていた。五月下旬から六月三日にかけての大雨で、川尻町や野田、杉島をはじめ沼山津・鯰・横手・銭塘(ぜにとう)などが濁流におおわれた。田畑水損、川塘(かわづつみ)決壊など被害甚大であった。流失破損家屋は町家九百四軒、百姓家二五四五軒、死者十七人であった。
 もっとも被害の大きかった川尻町では九月五日の夜、打ちこわしがおこった。そして天保七年高瀬町でも打ちこわしがおきた。同年から翌年秋にかけて三六七人もの行き倒れが出た。
 
 天保七年、矢部手永にも大雨と大風が襲いかかった。稲の生育にとってもっとも重要な時期である六月と七月であった。晴れた日はわずか十四日、雨天は五十七日であった。大風は十一日間やむことはなかった。
 保之助は会所役人ともども、被災した郷内をくまなく歩いた。村々の惨状は目をおおうばかりだった。吹き荒れた大風は杉をはじめとする木々を吹き折り、押し倒していた。水に浸かった田畑は、手のつけようもない状況だった。
 立ち会った各村の庄屋たちは、異口同音にうったえた。
 「布田さま、ご覧のように大勢の者がこの大風で家を壊されました。そのうえ早稲はこのとおり出穂が実のないもみだけの粃(しいな)となっております。ほとんどの田がそうでございます。今年の秋はだいじょうぶでございましょうか」
 「・・・・」
 保之助は、その粃となった稲の穂を手にとってみた。もみを押しつぶすと、空であった。農民の悲しみが、色濃く指先にまとわりついてくるような心持ちがした。
 どこの村へ行っても被害は程度の差こそあれ、悲惨なものだった。保之助は、ばく然とした危惧をいだいた。このままで終わらないのではあるまいか・・・
 
 八月十三日朝、保之助の危惧が現実となってあらわれた。
 突然の寒気に保之助は、身ぶるいして床からとびおきた。満が囲炉裏に火を入れた。盛夏であるにもかかわらず人びとは袷を着て過ごした。朝夕は綿入れなしではいられなかった。保之助は内心、おおきく身構えた。
 翌十四日、はやくも初霜が降りた。庭の霜を踏みしめながら、保之助は空をあおいだ。この異変をもたらしたつよい寒気が晴れわたった空をおおいつくしているにちがいないと、顔をくもらせた。いつまでこの異変がつづくのか、どのような災害をもたらすのかと、暗澹たるおもいがした。
 九月二日、郷内一帯雪のように白く霜におおわれた。稲や野菜をはじめ樹木や草花も樹霜(じゅそう)に白く彩られ、一夜にして冬景色にかわった。夏と秋がすっぽりとぬけ落ちてしまったのである。
 そして十月十六日には雪が降った。一日降りつづき、夜になってやんだ。積雪三寸、作物は全滅状態であった。

 翌日、遠望すれば雪化粧した阿蘇の根子岳と高岳が、白く光ってみえた。矢部郷の山々も、すべて雪をかぶって静まりかえっていた。一面雪におおわれ銀色にかがやく田畑に、肩を落としてたたずむ村人の影があちらこちらに数多くみられた。他郷の被害も矢部と変わらぬ惨状を呈していた。
 保之助は、各村から募った男たちと馬をひいて御船にある牛ヵ瀬倉へむかった。肥後藩の年貢米を備蓄する倉である。保之助は、ここに備荒の策として二分米を年貢一石につき二升ずつ備蓄していた。御囲米として毎年二八八石五斗六升が備蓄されていた。いわば飢饉や災害対策のための保険のようなものであった。この御囲米を放出したのである。矢部の郷民は飢餓におびえる必要がなくなり、保之助の深いおもんばかりに涙をもって感謝した。矢部手永では一人として餓死者を出すことはなかった。
 ちなみに、幕末の農政家二宮尊徳も小田原藩からその復興を命じられていた野州桜町領で一人の餓死者も出していない。天保三年二宮尊徳は、「非常用御囲い穀」として耕地一反につき六斗入り一俵のひえを備えるよう領民に義務づけ、その備荒の措置が天保の飢饉に効を奏した結果であった。
 二宮尊徳は、御囲いひえの不足分を尊徳のいわゆる分度(領主の支出制限枠)を越えた年貢米を備蓄したものから補っている。二宮尊徳が活躍の場とした関東とその周辺地域は西国と比べて土地の生産力が低く、また領主の年租が過重だったため、保之助がおこなった御囲い米などできぬ相談だったのである。

 この章を終わる前にフォン・シーボルトについて話をしたい。
 オランダ人と偽っていた陸軍外科少佐フォン・シーボルトは、文政十一年(1828年)十月出帆予定であったオランダ船コルネリウス・ハウトマン号で帰国を予定していたが、このときの超大型台風で碇綱の切れた同号が稲佐の浜に押しあげられて十二月まで海にもどすことができず、出国できなかった。
 もしこの台風が吹なければ予定通り出国しており、「シーボルト事件」は、また違った展開をみせたはずである。
 通説では、壊滅的な被害をうけて座礁した船の中から、禁制品の日本地図など多数が発見され、シーボルトは逮捕・軟禁されたとされている。が、そのじつ、コルネリウス・ハウトマン号は破壊されておらず、ましてや長崎奉行所の臨検もなく、十二月に離洲しており、船にあったのは、船体安定保持のためのバラスト用の銅500ピコルだけであった。
 
 この通説が流布された理由は、事件の発端の真実をおおい隠す目くらましではなかったかと推測される。
 事件の発端は、博物学者でもあったシーボルトが、幕府隠密とは知らず、間宮林蔵に書簡を送ったことである。
 シーボルトは、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を譲ってもらうことを希望し、書簡とともに更紗一反を贈った。シーボルトはその書簡と更紗を一包みにして、親交のあった幕府天文方兼御書物奉行高橋景保へ宛てた書簡に同封し、間宮林蔵に届けてくれるよう依頼した。高橋景保はただちにそれを林蔵に送り届けた。
 林蔵は、外国人との私的な交流や贈答は国禁に触れるとして、書簡を開封せず、そのまま上役の勘定奉行遠山景晋(かげかね)に届け出た、という。これが糸口となって「シーボルト事件」に発展し、シーボルトとその門弟ならびに高橋景保ら関係者多数が捕縛、投獄され、シーボルトは永久国外退去となった。
 獄死した高橋景保は、のちに塩浸けの遺体で斬首刑に処せられている。さすが幕府隠密は冷酷なものよと、間宮林蔵は非難を浴びた。
 幕府隠密間宮林蔵は、シーボルトと高橋景保との深い親交を知っていた。ふたりは六通もの往復書簡を交わしていたのである。景保は、林蔵にとって大師匠である高橋至時(よしとき)の息子であった。その景保と林蔵とは確執をかかえていたといわれる。そのため林蔵が、幕府に密告したとされたのである。   




  宮 部 鼎 蔵

 その坂をぐみ坂といった。
 名前のいわれは判然としない。
 とりわけその辺りにグミの木が多いわけではなかった。木倉(きのくら)村から矢部郷へむかう途中にある長い険しい坂である。坂をのぼりつめたあたりから、郷内をぐるりとみわたせるから郷見坂だという説がある。また、昔このあたりでいくさがよくあったので軍見坂だという説もある。いずれにせよ坂の正しいいわれを知る者はいない。
 
 そのぐみ坂である。
 かつて大雪の夜、長谷村の庄屋屋敷で自刃した布田保之助の父市平次が、雪に難渋しながらのぼった坂である。
 その早暁の坂を、矢部手永惣庄屋代役布田保之助が下っていく。
 天保四年(1833年)初夏のことである。
 保之助は、小者の太平を供に、城内二の丸の時習館菁莪斎(せいがさい)に横井小楠をたずねるところだった。
 過日、小楠から知らせがあった。今年二十四歳の小楠が時習館の居寮生に選ばれたとのことだった。居寮生は高等教育課程にあたるもので、藩費が支給される。年に米十俵の心付けである。これによって、部屋住みの身であった小楠は、困窮していた兄横井左平太一家に自分の食い扶持の軽減をもたらすことができたのである。 
 横井左平太時明は百五十石取りであったが、実際のところ手もとには二十石余りしか残らなかった。のち大分郡代となり、足高五十石がつくことになる。
 ついでながら、当時肥後藩では二百石取りの扶持米支給高が二十三石四斗という状態であった。二百石取り以下の者の家計は赤字で生活が苦しく、在(郡村地区)での生活を認める「在宅の制」を利用して城下を離れる者が多かった。さらに生活の苦しさに耐えかねて無願や株なしで在宅する者も増加していた。
 兄左平太が祝いの膳を整えて喜んでくれたと、手紙の最後に記されていた。

 坂を下る途中、保之助は、まだ薄暗い山中から人のいびきのようなものを耳にして不審におもい、足をとめた。大きないびきだった。太平に様子を見にやった。
 「旦那さまー」
 太平の大声が、保之助をよんだ。
 保之助は草をわけて、太平のそばに歩みよった。大柄な太平の足もとで少年が一人、両腕をおおきく伸ばして欠伸をしているところだった。がっしりとした体つきの武家の子どもだった。
 「このような山の中で野宿などして、猪(しし)にでも襲われたらどうする」
 と保之助は、少年の顔をのぞきこんだ。
 「斬って捨てます」
 と少年は、にっこり笑い、刀をつかんで朝露に濡れた草むらから立ちあがった。その目は、子どもに似合わぬ豪胆なものをうかがわせる光をはなっていた。
 「しかし、どうしてこのような山中で野宿などしていたのだ」
 と保之助は、さらに問いただした。
 「昨夜九つ(十二時)過ぎ、七滝の両親のもとを発ってここまでまいりましたところ、新月のうえ曇って星影もなく、足もとが定かなりませず、昼間の稽古の疲れもあり、ここでしばらく休んでいこうと横になったところ、つい寝過してしまいました。早く府内の叔父の家にもどらなければなりません。稽古に遅れますから」
 と少年は、いともあっけらかんといった。
 七滝から城下まで六里(23・5km)余りある。いかに鍛えた体とはいえまだ少年である。往復十二里の夜道を歩くという。
 「歳はいくつになる」
 「十三になります」
 と答えた少年がすぐに出発するというので、保之助は行をともにすることにした。
 
 道すがら少年は身の上を語った。
 名を宮部鼎蔵増実(ますざね)といった。保之助は田代村七滝に宮部春吾という医師がいることは承知していた。代々医家であった。
 その長男である鼎蔵は医師になるべく、九歳のとき、祖母とともに城下内坪井町の叔父野村傳右衛門のもとに行き、文武の教育を受けることになった。藩主細川斉護(なりもり)の世子慶前(よしちか)の傳育(ふいく)係であった野村傳右衛門は、のちに、慶前が二十四歳で早世したとき、後を追って切腹するのである。そのとき、傳右衛門は鼎蔵の膝にもたれて息をひきとっている。
 今年正月のことでしたと、鼎蔵がいった。
 「おまえも十三になったのだから、月に五、六度は七滝に帰って、ご両親のご機嫌を伺うてこなければなりませぬ」
 と、祖母にいいつけられたという。
 近所でも鬼婆さんとあだ名されるほどのやかまし屋の祖母である。だが、のちに「孝忠」を説き「孝は百行の本」とした鼎蔵は、素直に祖母のいいつけにしたがった。
 この「孝忠」である。孝は忠なり、と読む。この時代「忠孝」は封建社会の基本であったが、宮部鼎蔵は、人道の大本はまず人として親子間における至純の「孝」にはじまり、「孝」をとおしてまっとうされるとしてゆるぎなく信念の根本にすえた。その「孝忠」の醇徳と熱意が一生鼎蔵をして動かしめたのである。
 藩の軍学師範になったとき、内坪井に兵学塾である宮部塾を開いた。鼎蔵は人間教育を塾の根幹におき、門弟にはまず「孝経」を読ませた。孝行至純の篤実をふかく体内にとりこみ、尊皇攘夷をかかげて幕末動乱期をつよく生きた宮部鼎蔵の思想の純度を物語るものであろう。

 鼎蔵は六里の道を歩いて帰り、両親の顔を見て一刻もせぬうち、熊本へ向けて出立するのである。前日の午後四時か五時ごろ熊本を発ち、七滝に着くのが午後十一時前後である。十三歳の少年が昼間の稽古で疲れきった体に鞭打って、十二里の道程を歩き抜く強靱な精神力は尊敬に値すると、保之助は心から宮部鼎蔵を称賛した。
 鼎蔵のもう一人の叔父である宮部丈左衛門増美(ますよし)は、藩の十二代目軍学師範であった。鼎蔵は野村傳右衛門の死後、丈左衛門の養子となり、のち十四代目軍学師範になるのである。
 「増実よ。我らは名族の子孫である。しかるに沈淪して、久しくあらわれざるはまことに遺憾である。ぜひ志を立てて家を興さねばならぬ」
 というのが、叔父宮部丈左衛門の口癖であった。
 宮部家は近江国浅井郡宮部村(現、滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を祖とした。鼎蔵の祖たる宮部継潤(けいじゅん)は通称を善祥坊といい、戦国時代から安土桃山時代の武将、大名であった。
 初め浅井長政に仕えたが、のち秀吉の与力となり、秀吉の中国攻めにしたがい、功あって天正八年(1580年)ごろ但馬豊岡城主となり二万石を有した。天正十年、山陰方面での戦功により毛利氏の反攻をふせぐ最重要拠点である因幡鳥取城の城代をまかされ、後顧の憂いなく信長死後の畿内統治に秀吉を専念せしめた。その功多大であったため鳥取城主、五万石の大名となる。天正十三年の九州攻めの功績により加増、五万九七一石を領した。のちさらに加増をうけて知行八万一千石となった。
 長男宮部長房も秀吉につかえ、従五位下兵部小輔に叙せられ、慶長元年(1600年)隠居した父の家督をついだ。関ヶ原の戦いでは初め東軍についたが、寝返って西軍にくみして所領を没収され、盛岡で没した。
 宮部長房に異腹の弟がおり、市左衛門といった。山城青龍寺城の細川藤孝(幽斎)につかえ、禄高二百石であった。以後代をかさねて曾祖角次に至ったおり、次子であることをもって後をつがず、肥後国上益城郡田代村に引きこもり、医家を開業したのである。
 
 鼎蔵は、そのようなわけで、このころからすでに丈左衛門から軍学を学んでいた。
 「細川藩の山鹿流兵学は、山鹿甚五左衛門高興(素行)が最初につくったものです」
 と、鼎蔵が歩きながら保之助を相手に山鹿流兵学の講義をはじめた。
 「山鹿流兵学は現実的、実際的なもので、その原理はあくまでも数学的合理主義です。他流においては、まことにつまらない形式論にこだわる形骸化した兵学が講じられています。たとえば、楠木流では、敵の大将の首を討ち取った場合の首実験の作法などを教えています。こういうものは実際の戦闘にはなんの役にも立ちません」 
 そういって鼎蔵は、山鹿流兵学の具体的な好例として、元禄十四年(1701年)の赤穂浪士吉良邸討ち入りをあげた。
 若き日の大石内蔵助は、直接、山鹿甚五左衛門から山鹿流兵学の教えを受けている。その当時、山鹿甚五左衛門は、朱子学や陽明学を中心とした官学を批判した咎(とが)めをこうむり、赤穂藩御預けになっていたのである。
 「赤穂四十七士の内訳は、六十歳以上が堀部弥兵衛七十七歳をはじめ十人、二十歳未満の者が四人、残り三十人余が主戦力というわけでした。大石内蔵助どのは、山鹿流兵学をもって、つまり数学的合理性をもってたくみにこの兵力を用いられました」
 鼎蔵の講ずるところによれば、大石内蔵助は三人一組のチームをつくり、これを吉良方一人一人に立ちむかわせている。三人という数は、結束すれば非常に強力な戦力になる。いかなる腕達者でも、三人同時にかかられては勝ち目はない。それも真ん中の者には槍を持たせ、その左右には腕達者を配している。左右が斬りかかり、敵が動こうとすれば槍が突く。これは軍隊戦というべきもので、合理的な戦術である。
 その結果、赤穂方は手傷を負ったくらいで討ち死にした者は皆無である。吉良方は死傷者を多数出し、しかも吉良上野介は首級をあげられている。
 大石内蔵助は、泉岳寺に詣でて主君に仇を奉じたことを報告したのち、「徒党を組んで討ち入った、兵を動かした」ので天下の大道に背いたとして、いさぎよく大目付仙石伯耆守に申し出ている。
 ちなみに、幕府裁定により、肥後藩細川家には大石内蔵助ほか十七名の浪士が預けられた。細川家では、二百五十石取りの学者でもある堀内伝右衛門を接待役として、手厚く歓待した。
 元禄十六年二月四日、芝の細川家下屋敷において大石内蔵助良雄は辞世「あら楽や 思いは晴るる 身は捨つる 浮世にかかる月に雲なし」を詠み、はればれと腹を切った。 

 布田保之助は、宮部鼎蔵の話に深い感銘をうけた。目からうろこが落ちるおもいだった。
 保之助はこれまで、赤穂浪士の戦闘の様子をこのように軍学的に分析して考えたことがなかった。ただばく然と、用意万端ととのえた奇襲作戦が功を奏したのであろうというほどのおもいを抱いていただけだった。 
 少年宮部鼎蔵の山鹿流兵学の講義はつづく。 
 「さらに実際軍を動かす際、山鹿流兵学では軍の行進は、一鼓六足でおこないます。山鹿流陣太鼓をドンと打ってまたドンと打つ間に、サッサッサッと六歩あるきます。この太鼓の間は、臨機応変にかわります。急ぐ際は太鼓の間が短くなります。
 この陣太鼓の間の取り方によって、軍隊の移動速度がわかり、到着時刻をはかることができるわけです。じつに合理的かつ数学的な考え方です」
 鼎蔵は七滝と城下の往復の際、胸の裡で陣太鼓の拍子をとりつつ歩くのだという。そうすればそれぞれの到着時刻がほぼ正確にわかるといった。
 「しかし途中で寝てしまっては、御伽草子のウサギとカメのウサギではありませんが、せっかくの計算もなんの役にも立ちません」
 といって、鼎蔵は、みずから可笑しそうに大きな声をあげて笑いだした。
 つられて保之助も太平も、大きな声で笑った。
 だが、笑いながらも保之助は、宮部鼎蔵が若年にもかかわらず、山鹿流兵学をじゅうぶんに理解し、日常においてもそれを実践していることにいたく感じいった。そして将来大器となるであろうことを予感した。 
 ようやく初夏の太陽が杉林の上に顔を出しはじめ、今日一日の暑さを約束するかのように強い陽光を押し広げていった。 

 保之助が惣庄屋になった翌天保五年、宮部鼎蔵は医学を修めるため城下にある蒼良塾に入門した。天保の飢饉に苦渋を強いられながらも学問にはげみ、天保八年蒼良塾を卒業した。
 しかし、鼎蔵は蒼良塾を卒業したものの、医者の道をたどることはなかった。村医者で一生を終ることをいさぎよしとしなかったのである。青雲の志を胸に、鼎蔵は叔父の宮部丈左衛門に就き、山鹿流兵学をおさめた。
 天保十一年(1840年)鼎蔵二十歳のとき、丈左衛門の養子になったが、その年丈左衛門が亡くなった。
 「増実よ、ぜひとも家を興さねばならん。頼んだぞ」
 いまわの際に丈左衛門が、耳をよせた鼎蔵に弱々しい息とともにいったのである。
 鼎蔵は葬式を終えて、決意を新たにした。軍学師範村上傳四郎につき、代見に任ぜられるまでに精進した。
 鼎蔵は、二十九歳になった。そして中尾ゑ美をめとった。鼎蔵はこのときほど幸せを感じたことはなかった。だが、その幸せは長くはつづかなかった。この年、次弟の春熙(はるひろ)と母やそがつづけて亡くなったのである。
 嘉永二年(1849年)三十歳になった鼎蔵が軍学師範にとりたてられ、翌嘉永三年九州を遊歴する吉田松陰と生涯の親友になり、寛永五年松陰とともに東北旅行をしたことは前述した。
 
 松陰は、その若い晩年、思想の本質を悟り、断言している。
 「思想を維持する精神は、狂気でなければならない」
 西郷もまた革命という思想の本質を喝破し、その実体化についてのべている。
 「正論では革命はおこせない。革命をおこすものは僻論(へきろん:道理にあわない論)である」
 その松陰が金子重輔とともに、江戸大名小路の肥後藩上屋敷に宮部鼎蔵をたずね、外国留学のため再度の密航をくわだて、下田沖に停泊するぺリー艦隊の旗艦ポーハタン号に乗じて渡米をこころみると告げたのである。
 「乗艦を拒否されるかどうか、その成否は問題ではありません。思想はその実行をもってはじめて天下を動かす実体となりうるのです。仮に罪をえて幕府がわたしを裁くときこそ、わたしがこれまでとってきた行為をすべて告白し、攘夷鎖国をつよく説いてみせます」
 と、松陰はいった。
 「吉田君、無謀すぎる。もう少し時期を待て」
 と鼎蔵は、十歳年下の友人に翻意をうながそうとした。
 この年、安政元年(1854年)一月十六日米国海軍大佐マシュ―・ペリーが九隻の軍艦をひきつれて、ふたたび江戸湾に姿をあらわしたときのことである。
 ペリーは前年の嘉永六年六月十二日、幕府に開国を迫るフィルモア大統領の親書を手わたし、回答に一年の猶予をあたえて江戸を去った。だが、香港で将軍家慶の死を知り、一年を待たず、政局の混乱に乗じようと軍艦九隻という武力をもって徳川幕府を恫喝したのである。

 嘉永六年に吉田松陰は、師である佐久間象山と浦賀に黒船を見た。艦砲七三門を備えた四隻の軍艦のうち、二隻が三本マストの蒸気外輪フリゲート艦であった。あとの二隻は帆走の軍艦であった。黒塗りの船体に外輪を装備し黒々と煙を吐く蒸気機関の軍艦は、西洋文明の象徴として松陰の心を鷲づかみにした。
 アヘン戦争で清が西欧列強に蹂躙されたことを知り、山鹿流兵学の時代遅れを悟った松陰は、このとき、外国留学を決意した。攘夷を主張しながらである。それには密航以外に手立てはないと、ふかく松陰は思いさだめたのであった。
 同年七月長崎にも開国を求めてプチャーチンのロシア艦隊が寄港していた。九月十八日松陰は同郷の金子重輔をしたがえて、江戸から長崎をめざした。途中熊本により、鼎蔵宅に宿泊した。そのとき横井小楠と会い、小楠の「実学」思想の基本となる堯舜三代の治道と孔子の道についておおいに議論をかわした。
 十月二十五日松陰は長崎へ急いだがロシア艦隊はすでに出航した後だった。クリミア戦争にイギリスが参戦したため、プチャーチンが予定をくり上げて長崎を去ったのである。そのため松陰の最初の密航計画は失敗に終った。
 
 翻意をうながす鼎蔵の言葉に、松陰は襟を正して静かに答えた。
 「狂気をもって攘夷鎖国を説いて日本全土を沸きたたせ、その狂気によって幕府を倒し、しかるのちに開国し、西洋技術文明をもって富国強兵をなし、もって欧米列強の侵略戦争に対抗するのです。
 明日悔いるより、今日ただちに決意して仕事をはじめ、思想を完遂すべきかとおもいます。何事であれ、決意してものごとにとりかかるのに年齢の早い晩いは問題ではありません。西洋の先進文明は西洋において習う以外に手立てはないと考えます。アヘン戦争で清が西洋の列強に大敗したのは、旧弊な清朝が西洋文明に遅れをとったからです。
 天下は一人の天下。一君を戴き、四民平等の世界を創成するにはまずこの目で西洋を見、西洋に学ぶべきものは学び、その実態の真実をみきわめ、しかして国家の進むべき方向をさだめなければなりません。そのためには渡海せねばならず、死罪たる渡海の国禁を犯すことをおそれては国家の危機を救うすべはないと覚悟いたしました。この大事を達成する機会はいま、このときしかありません」
 松陰の決意は、微塵もゆらぐものではなかった。
 松陰は単なる攘夷家ではなく、鼎蔵に胸の裡をあかしたように攘夷を革命の基礎戦略としてとらえ、松陰の理想とする社会を打ち立てることを至上命題としたのである。しかし天皇至上主義者である松陰の説く四民平等の世界とは、疑似デモクラシーとでもいうべきものであった。

 「わかった、吉田君。もうなにもいうまい。君の無垢なる志を壮とし、わたしの刀と藤崎八幡宮の神鏡をはなむけに贈ろう」
 そういって、鼎蔵は手文庫から神鏡をとりだした。そして床の間の刀掛から自分の刀をとりあげ、松陰の手に握らせた。宮部家伝来の大刀だった。
 「かたじけない。ありがたく頂戴いたします。それでは、かわりに私の刀をお受けとりください」
 と、松陰はかたわらに置いた刀をつかんで、鼎蔵にわたした。
 「ありがとう。いつも吉田君とともにいると思い、腰に差していよう。しばらく待ちたまえ」
 といって鼎蔵は硯箱をひきよせ、墨を磨り、そしてしばらく瞑目したのち、筆をはしらせた。
 「これを」
 と、鼎蔵は松陰にさし出した。
 皇神(すめがみ)の真の道を 畏(かしこ)みて
             思ひつつ行け 思ひつつ行け 
 松陰は、自分を慈しみ励ます鼎蔵の心に涙した。
 「ふたりの友情のしるしとおもってうけとってくれたまえ」
 「ありがとうございます。かならずやアメリカにわたり、日本の進むべき道を五大州に探ってまいります」
 「おう、その意気やよし」
 といって鼎蔵は、松陰の肩をたたいておおきく笑った。
 笑いながら鼎蔵は、この年若い英傑は死をもっておのれを完結しようとしていると、喉の奥がつまるおもいがした。

 松陰は、四月二十五日下田沖のぺリー艦隊旗艦ポーハタン号の甲板にたどりつくことはできたが、密航を拒絶された。松陰はただちにみずから密航の企てを申したてて捕縛され、やがて送られた江戸伝馬町から金子重輔ともども長州に檻送された。
 安政六年(1859年)十月二十七日、この朝死罪を宣告された松陰は、おなじく安政の大獄の網にとらわれた越前藩士橋本左内や頼山陽の子である頼三樹三郎(みきさぶろう)などにつづき、伝馬町獄舎で首切り浅右衛門の一太刀によって堂々と二十九年の生涯を終えた。

 宮部鼎蔵に弟がいる。宮部春蔵増正、通称を大助といった。末弟である。甘やかされたやんちゃな悪がきが、少しの落ちつきもなくおおきくなったような若者だった。
 その大助が、はからずも鼎蔵が勤皇の志士としておおいに躍動するきっかけをつくったのである。
 安政三年(1856年)五月、大助が宮部塾門弟丸山勝蔵ら五人と連れだち、夕暮近い府外の水前寺をぶらついていたときのことである。ここに国分寺跡というのがあり、そのあたりで日頃から仲が悪かった永原岩熊と山田某という少禄ではあるが士分格の家柄の息子二人とばったり顔をあわせてしまった。八人の若者が、日頃の遺恨をはさんで火の出るようなにらみあいとなった。
 「お前らは手を出すな」
 と丸山勝蔵がいって、大助と二人前に出た。
 丸山勝蔵は、甲佐手永惣庄屋丸山平左衛門の息子で、宮部塾では文武に優れた塾生だった。
 永原と山田はともに沼山津(ぬやまづ)にある横井小楠の塾に通っており、いうならば実学党に属している。片や大助たちは宮部塾の塾生で肥後勤王党である。はじまった口論は、おのずと激しさをましていった。
 ついに口舌の争いに負け、かっとなった永原岩熊が鯉口をきって刀を抜いた。
 「大助さん、抜くなよ」
 と、腕に自信のある丸山勝蔵が大助に釘をさし、かたわらに立てかけてあった高ぼうきを手にした。後日の沙汰で士分上席の者に刀で歯向かったとわかればこちらが不利と、丸山勝蔵は判断したのである。
 数合の打ち合いののち、手傷を負ったものの、丸山勝蔵は高ぼうきで永原岩熊の刀をたたき落とした。永原は落とした刀を拾って、山田とこそこそとその場を逃げさった。
 あまりに鮮やかな結末が評判となったが、そのことがかえって仇となった。奉行所の知るところとなったのである。
 翌年二月奉行所の沙汰が下った。
 士分上席の者に身分をも顧みず抵抗したのは不届きの極みという理由で、二十歳の丸山勝蔵は刎首(ふんしゅ:打ち首)、十八歳の宮部大助は苗字大小取り上げ、頭に入れ墨、笞百叩き、三年眉無しの刑で入牢となった。
 父兄である宮部鼎蔵は独礼(武士の最低の資格)に落とされ、軍学師範を免ぜられた。
 永原岩熊は無罪放免であった。
 
 肥後勤王党の領袖たる鼎蔵は、実学党の領袖である横井小楠と決別した。
 保之助はそんなふたりを複雑な思いでながめていたが、なにはともあれ鼎蔵の身過ぎ世過ぎの算段をせねばと奔走した。矢部浜町の主だった商人十二人が、文武芸教導方としてとりあえず三年間鼎蔵を浜町の稽古場(調練場)へ雇い入れるという保之助の提案によろこんで賛同した。扶持方米として各自一俵ずつ十二俵を出すということになった。
 これで鼎蔵は民間に職を得て過分な扶持をもらうことになったのである。保之助の友情にふかく感謝した。
 文久二年(1862年)庄内藩出身の志士清河八郎が鼎蔵をたずねてきた。
 清河八郎は諸国に足をはこんで尊皇攘夷を説いてまわり、幕末維新の火付け役となった熱烈な攘夷論者である。その弁舌は明快で爽やかではあったが、その政局論はいささか空想的な色合いが濃かった。
 京の中川大納言が攘夷を掲げて立つに際し、ぜひに肥後の勤王党も賛助されるべしと説いた。しかし肥後勤王党はたぶんに観念的、精神論的であり、他藩の尊攘派のような行動力に乏しく、かえって清河八郎の爽やかすぎる弁舌に懐疑の念をいだいた。
 失望した清河八郎は肥後をあとにし、薩摩藩国父島津久光を説いて兵を率いて上洛させることに成功した。そのことを知った鼎蔵は藩論を尊皇攘夷に導こうと奮闘したが、保守・佐幕の肥後藩が耳を貸すはずもなかった。
 鼎蔵は憤然として肥後を去り、京にのぼるのである。




  霊 台 橋 その一

 緑川は、日向境の向坂山(さきさかやま)と小山岳の西麓広葉樹林帯をうるおす雨の一滴を源とする。それらは幾千条ものか細い流れとなり、集って清流をなし、そしていつしか阿蘇の大地を浸食して深い谷を刻み、肥後の中央部を西へ向かって蛇行しつつ有明海を目指し、宇土半島の北側の根もとをめぐって島原湾に注いでいる。
 阿蘇を源とする白川とならんで益城地方の暴れ川である。流れは速く、橋のない不便を渡舟で補っていたが、雨が降れば激流となり、大石や大木も流れ下ってくるので、舟は使えなくなる。それを徒歩渡りしようとして命を落とした者は数知れず、砥用(ともち)郷の川筋の人びとは長い間忍従の生活を強いられてきたのである。
 その忍従から里人を解きはなつため、下益城郡砥用手永惣庄屋三隅丈八が緑川の桑津留の渡場に渡り三十間(54m)の無柱式木橋を架設したのは、文政二年(1819年)九月五日のことだった。
 緑川初の架橋だった。だが所詮(しょせん)は木橋である。何としても朽ちるのが早く、また大水が出ればもろくも流れた。この年から天保十二年(1841年)の二十二年間に五度の架橋をくりかえした。そのたびに人夫として助勢を惜しまなかった里人たちも、すっかり弱りはてていた。
 
 弘化二年(1845年)十月十五日、篠原(ささはら)善兵衛が砥用惣庄屋に任ぜられた。かつて柏川(かしわごう)井手を完成させた惣庄屋三隅丈八を強力に補佐した篠原善兵衛、その人である。緑川初の木橋を架けるおりも、手付横目として三隅丈八をたすけた。
 篠原善兵衛には、すでに木橋に代わる架橋計画があった。緑川に険しい谷をなす船津峡に石造目鑑橋(めがねばし)を架けるのである。種山石工三五郎が当惑谷に雄亀滝橋(おけだきばし)を架設したときから、緑川にもこのような石橋を架けることができればと、篠原善兵衛はおもいつづけてきた。

 時期到来であった。
 篠原善兵衛は、建設資金として私財をすべて投げ出す覚悟だった。その他に砥用手永会所の官銭と郷内の人びとの寸志(寄付金)を費用に当てるつもりだった。
 篠原善兵衛は、ただちに惣庄屋屋敷に種子山林七の孫である石工棟梁宇助と峙原村(そばはらむら)大工棟梁伴七の両名を呼びよせ、緑川新架橋の構想を話して聞かせた。
 「よきお考えかと存じます。もはや石橋以外には考えられませぬ」
 と伴七は、顔をかがやかせて賛同した。
 「・・・・」
 種山石工の若き棟梁宇助は、腕を組み、黙したままだった。
 篠原善兵衛の目鑑橋の径間(アーチ径)はおよそ十六間(約28.8m)である。叔父三五郎が益城地方で架けた二つの石橋の一つ、雄亀滝橋の径間六・六間のおよそ2倍半、そしてもう一つ聖橋のそれのおよそ1・5倍の長さがある。
 くわえて橋の高さ九間(16・32m)という。その架橋個所たる船津峡は、急流で知られる緑川でもっとも難所といわれる渓谷である。いずれの数値も、名工と謳われる叔父岩永三五郎でさえ手掛けたことのないものである。
 
 宇助は天保十年(1839年)二十一歳のおり、薩摩藩の招請をうけた叔父三五郎に連れられ、三五郎の弟である叔父三平や弟子の石工たちとともに鹿児島に行った。
 三五郎は、嘉永二年(1849年)八月江ノ口橋を最後に完成させるまでに三十六もの目鑑橋を築造したばかりではなく、甲突(こうつき)川や稲荷川の改修工事、川さらえ、新川開削、波止場建設、石堰・堤防工事など土木・治水工事にも多くの業績を残している。
 それらの工事を通して宇助は、二人の叔父から石工としての技術と知識を厳しくたたきこまれた。
 そんなおりの弘化元年(1844年)のことだった。
 永送り(暗殺)を警戒した三五郎は、弟子たちを順次送り帰そうと決意し、薩摩藩における上司である海老原清熈(きよてる)に申し出た。
 海老原清熈は、薩摩藩の天保の改革をおこなった家老調所広郷の若い才気溢れるブレーンだった。その海老原が、岩永三五郎を薩摩に招聘するよう調所広郷に献言したのである。
 「甥の宇助も今年で二十六になります。種山村の両親も年をとり、心配でございますゆえ、一度両親に顔を見せに帰したく存じますが、いかがでございましょう」
 「もっともである。よかろう」
 と、海老原清熈は快諾した。
 そのようなわけで、宇助の場合は追手もなく、首尾よく種山村に逃げ帰ることができた。

 その宇助がかたく口を結んだまま、両腕を組んで考えこんでしまったのである。
 薩摩でいかに厳しく仕込まれたとはいえ、船津峡にわたす目鑑橋は、これまで誰も架けたことのない大橋である。考えこまざるをえなかった。
 「戻りまして、弟たちと相談いたしましたうえでご返事いたしたく存じますが・・・」
 宇助は、そういって即答を避けた。種山石工の面目にかけて断ることはしたくなかったが、めがねがいかにも大き過ぎたのである。
 宇助には四人の弟がいた。上から宇一、丈八、甚平、勝蔵といった。中でも宇一と丈八は、石工として抜きん出た腕の持ち主だった。後に宇一と丈八が中心となって通潤橋を轟渓谷にわたすことになる。
 「宇助、わかった。責任はわしが命にかえて持つゆえ、ぜひとも受けてほしいのだ」
 篠原善兵衛は、かたい決意をやどすつよい目で宇助をみた。篠原善兵衛は、橋が落ちれば腹を切る覚悟だった。

 宇助の両親と弟たちは、岩永三五郎が薩摩にむかった天保十年に矢部郷の小野尻(このじり)村に転居していた。宇助は肥後に帰国後、種山村の両親の家をひとりで守っていた。
 小野尻の屋敷の居間に六人の男たちが集まっていた。宇助の父嘉八、宇助、宇一、丈八、甚平、勝蔵である。五人の息子たちはみな二十歳代の働き盛りの石工だった。
 「篠原さまが、責任は命にかえて自分がとるからぜひにといわれた」
 と、宇助は弟たちの顔をみまわした。
 「私財を投げうつまでに肚をくくっておられる篠原さまに、手を貸さぬという法はあるまい」
 兄弟のなかで一番体の大きな次男宇一が、きっぱりとした口調でいった。
 「それはわかっている。問題は、船津峡に架けるめがねが叔父貴も手掛けたことのない規模の大橋だということだ。めがね渡りおよそ十六間、高さ九間のめがねが、はたして船津峡にみごとすわるかどうか」
 と、ふたたび宇助がみなをみまわした。
 「じつのところやってみなければわからぬが」
 そういったのは、三男の丈八だった。まだ二十四歳だったが、岩永三五郎の後を継ぐに足る優れた技量を裡に秘めていた。
 「この長さで高さが九間というのは上限ぎりぎりだろう。であれば、めがねを五分輪にすればじゅうぶんすわるとわしはみる。ただし、川が増水する梅雨と野分の時期を避けて、短期間で勝負することが肝要だが」
 のちに橋本勘五郎と名乗る丈八は、アーチの径間(スパン)と拱矢(きょうし:スパンからの高さ)の関係について、目鑑橋は、径間を十とした場合、拱矢を五としたものを五分輪、四としたものを四分輪、三・五としたものを三分五厘輪といい、「五分より三分五厘までを良しとす。そのもっともよろしきは四分輪をもって第一とす」といっている。

 「わしもそうおもう。やってみようではないか。親父どのはどうおもわれるか」
 と宇一が、嘉八の顔をうかがった。
 胡坐(あぐら)をかいた嘉八は息子たちの話を黙って聞いていたが、組んでいた腕をほどいて両手を膝の上においた。
 「わしも、じつのところわからぬ。が、前例がないからといって手をこまぬいていては、いつまでたっても事は進まぬ。これまでの経験を踏まえて、冒険できるものであればやってみればいい。
 下地橋に巻石を積みあげ、要石をたたき込んでみて、迫持ち(せりもち)しなければまた積み直せばよい。そのうえでさらに手直しが必要であれば改めればよい。
 新しいことを成就しようとすれば、冒険は避けられぬことだ。そうした経験をかさねることで腕を磨くことができる。
 あとはお前たちの肚ひとつだ」
 嘉八は、息子たちを崖から蹴落とすようにいいはなった。
 五人の若者は、たがいに顔をみあわせた。
 「やろう」
 宇助が、はじめに口を開いた。
 「おう、やろう」
 四人の弟たちが、力強く声をそろえた。

 宇助は、砥用手永会所の惣庄屋役宅に篠原善兵衛をたずねた。
 篠原善兵衛は、宇助のことばを聞くや破顔一笑した。
 「そうか。引き受けてくれるか。それでこそ天下の種山石工というものだ」
 と、篠原善兵衛は膝をたたいて喜んだ。
 翌日から、大工棟梁伴七ならびに万助をまじえて、桑津留目鑑橋の具体的な架橋計画が話し合われた。
 過ぐる文化十三年、安見村の石工棟梁伝助と舞鹿野村(もうかんむら)の大工棟梁立助が、砥用惣庄屋三隅丈八と手付横目篠原善兵衛に宛てて提出した桑津留渡場定橋掛方、本願御積帳(見積書)がある。本格的な木造無柱橋の大規模な施工見積書だった。
 緑川初の木橋はこれを基にしながらも大幅に簡略化されたものだった。このころの三隅丈八は柏川(かしわごう)井手という大工事を終えたばかりで、大規模な施工をする資金的な余裕がなかったのである。
 篠原善兵衛は、これを土台にして石造目鑑橋を建設しようと提案した。
 「船津峡は緑川の急流が狭まって幅およそ十五間(27m)の淵をなしている。右岸たる船津側はその淵からただちに伸びあがる断崖となっているので、この岩をうがって目鑑橋の片方の脚をすえればよい。
 しかし、左岸たる対岸の桑木野の崖から川の本流がながれる淵まではかなり遠いので、渡り16間の橋を架けても、もう一方の脚は左岸の崖には到底届かぬ。御積帳にあるように、左岸から淵のそばまで長大なる道路石垣をつくらねばならぬ。
 これを見れば、長さ二十四間(43・2m)、高撫(たかなで:平均の高さ)二間五合(4.5m)の大石垣になる。そのうえ大石垣を保護するため、その両面に長さ二十四間、高撫九尺(2・7m)の副石垣が必要になる。
 つまり二段構えの通石垣になるというわけだ。さらにこれに孫石垣を備える。これでいかような大水が出ても、びくともするものではない。完成すれば肥後では他に見られぬ堂々たる大石橋になる」
 といった篠原善兵衛の顔は、そのことばほどにははればれとしたものではなかった。
 長さおよそ十六間、高さ九間、径間一五・六間の目鑑橋が、強固な岩盤ではあるが、急流の緑川に下地橋を組んでゆるぎなく積みあがるのか。篠原善兵衛にとっておおきな賭けであった。

 翌弘化三年正月明け、砥用惣庄屋篠原善兵衛から下益城郡代松浦津直を通して藩庁に桑津留橋の「奉願覚」(建設許可願)が提出された。
 建設主任たる大工棟梁伴七があらためて測量をし直し、通石垣の長さに修正を加えた。右岸の船津側を五・五間(9・9m)、目鑑橋の渡り一六間(28・8m)、左岸桑木野側の崖までを二七・八間(50・04m)とし、両岸の崖を削って道を作り、全長五四・五間(98・1m)の桑津留橋に変更された。
 下地橋の図面は伴七が担当し、目鑑橋および道路石垣は宇助が図面を引いた。
 同年二月、肥後藩から上告の許可が下りた。とくに問題とされることはなかった。
 二月二十一日、砥用手永会所において初の桑津留橋関係役人との打合せがあった。
 関係役人として出席したのは、郡代松浦津直、横目内野庄九郎ならびに岡島繁蔵、塘方(ともかた)助役三隅嘉兵衛などであるが、井樋方(いびかた)助役として布田保之助が同席した。
 地元関係者としては惣庄屋篠原善兵衛、大工棟梁伴七ならびに万助、石工棟梁宇助、そして村方として根〆役の大久保村孫作などであった。
 打合せが終り、最後に郡代松浦津直が満足げに語った。
 「此のたびの桑津留橋架橋に際し、惣庄屋篠原善兵衛の郷民をおもう深い慈愛と多大なる浄財にたいし、砥用国の民にかわって幾重にも謝したいとおもう。またその砥用の民である。架橋の夫役(ぶやく)に、みずから村方として総動員で臨むという。まことにあっぱれなる心がけである。郡代松浦津直、心から誇らしく、また嬉しくおもう。
 桑津留橋は落成すれば、熊本と日向国延岡を結ぶ新しい日向往還の重要な要となるは明らか。この交通の便益が砥用国にいかほどの繁栄と発展をもたらすか、はかり知れないものがある。のちのちまで肥後藩の大いなる財産となるであろう。桑津留橋の渡初めがめでたくおこなわれることを心から願ってやまぬ次第である」
 
 打合せの終った砥用手永会所の小座敷で、布田保之助と伴七が火鉢をはさんでむかいあっていた。
 二月下旬の雪深い里では、山や杉林、そして竹林も雪でおおわれていた。杉林は梢から裾へと黒白のまだら模様をからめ、竹林は重たげに頭を垂れていた。地上に降り敷いた純白の雪は、雪晴れの青空の下、清冽な沈黙を守りつづけていた。  
 「じつにお久しぶりでございます。惣庄屋代役、また惣庄屋となりましてからは職務に追われ、自分の時間というものがなくなってしまいました。お伺いしなければと気にかけてはおりましたが、ついついご無礼いたしました。おゆるしください」
 保之助は、伴七に深々と頭をたれた。
 「いやいや、そのおことばはそのままわたくしのものでございます」
 と伴七は手をふって、保之助に笑いかけた。
 「わたくしの方こそ、ご無沙汰いたしました」
 そういって辞儀をした伴七は、陽に焼けた顔に皺をふやし、額に深く年輪を刻みこんでいた。
 ふたりは、次に出すべきことばを心の裡からとり出しかねていた。
 「志乃どのは、息災でございますか」
 と、保之助がおもいきったように口を開いた。
 一瞬目を閉じた伴七のおもてを、悲しげな翳がおおった。
 「志乃は」
 といって、伴七はいま一度目を閉じた。目尻から一筋、涙が糸をひいた。
 「亡くなりましてございます。文政八年(1825年)長崎で、コロリ(コレラ)にかかって亡くなりましてございます。二四歳でございました」
 そういった伴七は、たまらず両手で顔をおおった。
 保之助は、雷に打たれたような衝撃をおぼえた。
 ―――志乃が死んだ。
 保之助は、二十五年前の夜のことをおもいだした。
 「蘭学を学んで、蘭方医になるつもりです、何年かかろうとも」
 志乃が、保之助の腕のなかでささやいたのである。
 保之助は、まだそのぬくもりが腕のなかにあるかのようにありありと感じられ、腹の底からつきあげてくる嗚咽に懸命に耐えた。
 雪の重みで腰をおり低く地面に頭をたれていた庭の孟宗が、暖かくなりとけだした雪をふりはらって立ちあがった。その激しい音が、小座敷の静寂をやぶった。

 「志乃は、保之助さまとお別れいたしました数日後に、長崎へ発ちました」
 と、伴七が語りはじめた。
 文政五年志乃は、長崎のオランダ通詞猪俣傳次衛門を訪ね、学婢(がくひ)として入門をねがった。形だけの入門願いであった。前もって伴七が、猪俣傳次衛門から承諾は得ていた。その日から学婢として傳次衛門の屋敷に住みこみ、オランダ語を初歩から学ぶ書生になった。
 傳次衛門は、早くに妻を失くしていた。娘が一人いた。名を照といった。十歳だったが、オランダ語の習得に励み、志乃が傳次衛門からわたされた蘭語入門書をすらすらと読んでみせた。
 照は、すぐ志乃になついた。母親のいない寂しさをひとり耐えてきた少女にとって、明るく、ものにこだわらない性格の志乃は姉であり、母でもあるような存在だった。志乃も照を妹のように可愛がった。
 そんなふたりをみて、傳次衛門は喜んだ。男手ひとつで娘を育てる難しさをつくづく感じていた傳次衛門は、よいおりによい人を得たと安堵の胸をなでおろしたのであった。

 猪俣傳次衛門には伊藤玄朴という蘭方医の弟子がいた。肥前国神崎郡仁比山の出身だった。長崎郊外の鳴滝塾で外科医ファン・シーボルトに師事し、西洋医学の修得に精励していた。
 のちのことであるが、出島のオランダ商館長が江戸参府のおり、猪俣傳次衛門も長崎奉行所のオランダ通詞として同行した。その際、助手としてオランダ通詞となった娘照と伊藤玄朴をともなった。途中、不運にも傳次衛門は病にたおれ、今わの際に枕元の玄朴に、照を玄朴の嫁にといい残して息をひきとった。
 志乃は、伊藤玄朴について西洋医学の手ほどきを受けていた。
 文政五年は、その夏、コレラが大流行した年であった。文政三年ジャワのバタビアで大流行したコレラが、バタビアから出島におもむいたオランダ船を通じて、九州を手はじめに中国地方から京、大坂へと広まったともいわれる。
 安政八年、鳴滝塾の塾頭であった美馬順三がコレラにかかり、シーボルトの治療もむなしく亡くなった。
 そして同年志乃も、あっけなくコレラで命を落としたのである。コレラにかかればコロリと亡くなるので、巷では「コロリ」と称して恐れられた。
 「志乃の遺骨を抱いて、長崎から帰ってまいりました。それはそれは軽いお骨でございました」 
 と伴七は、その志乃の骨の軽さをいとおしむように懐かしむようにいうのだった。

 その日、保之助は伴七にともなわれて志乃の墓参りに峙原村(そばはらむら)をおとずれた。
 墓石の雪を払い、周りの雪をとり除いた。墓石に水をかけ、線香を焚き、般若心経をとなえた。
 目を閉じると、目蓋の裏に志乃が微笑む顔がうかんだ。保之助はおもわず墓前の雪の上に膝をつき、両手をついて激しく肩をふるわせた。 




  霊 台 橋 その二

 水かさを増して奔流となった緑川は、白い泡をかんで流れくだっていた。 
 船津峡に降る五月雨は、その緑川を、まるでたゆたう白い絹の垂れ幕のようにゆったりとたなびきながら、つぎからつぎへと絶えることなくわたっていた。
 布田保之助が小者の太平とともに緑川をさかのぼり、砥用の釘之耳石場にたどりついたとき、五月雨が篠つく雨となってふたりの笠と蓑をはげしくたたいた。
 ふたりは、石切り場のはずれにある茅葺の小屋にとびこんだ。宇助が率いる種山石工の宿舎だった。
 「お邪魔いたします。矢部郷の布田保之助でございます」
 保之助は笠をとって、辞儀をした。蓑から雨のしずくがしたたり落ちていた。太平も深く腰をおった。
 小屋のなかは五十畳ほどの広さがあり、贅沢にも縁つきの青畳が四十枚ほど板の間に敷きならべられていた。種山石工は当代一の先進技術集団である。驚くほど高額な賃銭をかせぐので、羽振りがよかったのである。
 
 その畳の上で男たちが車座になり、手拍子をとりながらやんやと囃(はや)したてていた。囃されていたのは、車座の真ん中でねじり鉢巻きにもろ肌脱ぎになってひょうきんな顔をつくり、手足をたくみにあやつりながら踊っている男だった。
 突然の保之助たちの出現に、にぎやかな酒宴がはたとやみ、男たちの顔がいっせいに主従ふたりへむけられた。
 「これはこれは、布田さまではございませんか」
 といって、件のねじり鉢巻きにもろ肌脱ぎの男が、鉢巻をとり袖に手をとおしながら、石工たちの輪を割って出てきた。棟梁の宇助だった。
 宇助とは、今年二月の手永会所における初の打合せの席ではじめて顔を合せ、以前から気になっていた薩摩の岩永三五郎の様子をたずねた。
 三五郎が宇助の父嘉八によせた便りによれば、今年薩摩の甲突川に西田橋を予定しているが、橋の高欄に施す彫物に三平の巧みな腕が必要なので、それが終り次第三平を肥後に逃がすつもりだということであった。
 そのおり、宇助が保之助に語った。
 「我ら兄弟は叔父から、布田さまと轟渓谷にめがねを架けるかたい約束をしたと、よく聞かされたものでございます。『そのおりにはかならずお主らを連れて行く。だがな、轟川の谷はまこと深いぞ。心してかからねばならん』と申すのが常でございました」
 保之助は三五郎が約束を忘れず、甥たちにもその話をしていたことを知って、心から嬉しくおもったのであった。
 
 宇一と丈八も立ちあがり、宇助のあとから保之助を迎えに出た。
 「こんな雨のなかをようこそお出でくださいました。いやはや、とんだところをお目にかけてしまいまして」
 と、宇助が屈託なく大きな声で笑ったので、保之助たちもどっと笑った。
 「今日は手土産に矢部の酒と鮎の甘露煮を持ってまいりました」
 と保之助は、太平に持たせてきた酒の小樽と酒のさかなをさしだした。
 「これはこれはありがとうございます。今日はあいにく朝からこんな雨で仕事になりませんので、酒盛りをしておりました。ありがたく頂戴いたします」
 と宇助は、酒の小樽と竹皮の包をおしいただいた。

 宇助たちに誘われて、保之助も車座にくわわった。
 ひとしきり茶碗酒のやりとりがあった後で、保之助は隣で胡坐をくむ宇助に話しかけた。
 「今日はお願があってやってまいりました」
 「はて、どのようなお願でございましょう」
 「矢部の川内川にめがねを架けたいとおもっております。橋は長さ九間(16・4m)、幅二間(3・64m)に手摺二十三間半(42・8m)を予定しております。下地橋の杣(そま)取りには八月から山に入るつもりでおります。
 その棟梁を宇一どのにお頼みしたいとおもい、石工惣棟梁の宇助どのにお許しをいただきにやってまいりました」
 宇助は、種山石工二十二人をはじめ、甲佐平村石工十六人、岩尾野村石工十三人、野津手永石工十三人、そして中山手永中間村石工七人と、総勢七十一人を引きまわす石工惣棟梁であった。
 そして此のたび大工棟梁伴七は、惣庄屋篠原善兵衛から桑津留橋御用掛(架橋工事監督)に任命され、峙原(そばはら)村大工棟梁万助は五十六人の地橋大工の惣棟梁となった。
 「なるほど川内川にめがねをお架けになる。この八月から杣取りに入るのであれば、十月晦日あたりまでには用材の山下ろしも終るでしょうな。となれば下地橋は霜降り月からの組立てになりますか・・・」
 と宇助は、作業工程を頭におもい描く様子であった。
 「布田さま、ここでの仕事でございますが、わしの見るところ、霜降り月にはめがねは座るとおもっております」
 「え、それはまことでございますか、宇助どの」
 保之助はおどろいてしまった。あまりの早さにおどろきを隠せなかった。目鑑橋の径間一五・八間の大橋がそんな短期間に完成するとは夢にもおもわなかったのである。

 「じつのところわしも来年のこととおもっておりました。ところが」
 と宇助は、顔をほころばせた。
 「天狗山や近戸などほかの石切り場でも、砥用の里の男衆がわしらの石切り以外の力仕事をすべて請け負っております。それも嬉々として重労働にはげんでおります。
 ここから切り出した石材は川まで新たに開いた道を使って緑川まで運びおろし、船に積んで船津の現場まで運んでおります。見まわりにお出でになった惣庄屋の篠原さまや御用係の伴七さまも、男衆の働きぶりにはいたく感激され、ありがたいことだと感謝されておりました。
 長年橋のない不便さに泣かされてきた緑川筋の人びとが、どれほど流されぬ橋を望んでいたかというあかしでございましょう」
 といって、宇助は冷酒を口にふくませると茶碗を膝もとにもどした。
 「そのうえ、村の女衆が炊き出しやお茶の準備にと大勢加勢にやってまいります。そのにぎやかなことといったらありません。いちど布田さまにもご覧にいれたいくらいでございます。みなの衆が笑い騒ぐさまを見ているだけで、こちらまで疲れが癒されるおもいがいたします」
 周りの男たちも、まったくまったくとうなづきあった。
 「それに村の娘っ子の尻を追っかけまわして、騒ぎをおおきくするやつもいるからな。アッハハハ・・・」
 と、赤い顔をした石工の一人が膝をたたいて笑いだした。
 「この野郎、よけいなことをいいやがって」
 と、その男のむかい側で胡坐をかいていた男が、やにわに茶椀をほうり出してとびかかった。
 仲間たちは立ちあがり、組んずほぐれつする二人を口々に囃したてた。
 宇一は頃合いをはかっていたが、やがて大声を張りあげた。
 「よせ、よさないか。もういい加減にせい」
 と宇一がとめにはいり、ふたりを引き離した。

 宇助はそんな騒ぎを気にするふうもなく、話をつづけた。
 「石切り場だけでも、延べ三万人ちかくの村人が働くことになります。まもなくはじまります大石垣や副石垣、孫石垣の石積みと、最後となるめがねにとりかかります人数を合わせますと、延べ四万人以上にはなろうかとそろばんをはじいております。
 これだけ多くの人びとの力があれば、霜降り月にはめがねが完成するのはまちがいないとみております」
 と宇助は、石工惣棟梁としての見込みをのべた。
 「なるほど。そんなに多くの村人が喜んで加勢に・・・」
 「左様でございます。そのようなわけで霜降り月には宇一の体は空くはずでございます。宇一、布田さまのお仕事、請けてくれるな」
 と、宇助は隣の宇一をみた。
 「矢部でお世話になっている布田さまのためなら、喜んでやらせていただきます」
 と宇一は茶椀を膝もとに置き、律儀に両手をついて保之助に頭をさげた。
 「ありがたい。桑津留橋井樋方(いびかた)助役としては宇助どのの邪魔をするわけにはまいりません。宇一どの、よろしくお願いいたします」
 と、保之助も丁寧に両手をついた。

 「ところで、宇助どの」
 と保之助は、宇助の茶椀に酒を注ぎつついった。
 「宇助どのが引かれた桑津留橋の図面、詳しく拝見させていただきました。あのめがねの描くたおやかな曲線はじつにみごとというほかありません。感服いたしました。
 めがねの中央が小高くなった手摺の線がゆるやかに左右に流れ、そのゆるやかに流れた曲線が、左岸の桑津留側から橋まで伸びた長い大石垣の上を水平にはしって桑津留まで届いております。めがねが実際石積みされ緑川をまたいだ優美なすがたは、想像するだにうっとりするおもいがいたします。
 宇助どのは、この美しくもたおやかな曲線を、いかようにしておもいつかれましたか」
 「それは、わしが薩摩におったときのことでございます」
 と、宇助は遠くをみるような眼つきになった。
 「叔父三五郎が、周防国岩国に錦帯橋という五連の太鼓橋があると話してくれました。錦川という大きな川に強固な石垣を組んで橋脚となし、木造の太鼓橋を五つ架けたそうでございます。
 わしはそのみたこともない美しい太鼓橋にあこがれました。わしもいつか錦帯橋のような美しい曲線をもっためがねを作ってみたいものと、おもっておりました。もう一人の叔父の三平も、よく左様申しておりました。
 錦帯橋は殿さまとお武家しかわたることがゆるされないとか。わしのめがねは、民百姓や牛馬が通るもの。それゆえ歩きやすいようゆるやかな勾配にいたしました」
 「なるほど。それで宇助どののめがねは、あのように優しいおもいやりのあるじつに優美な曲線をしているというわけですか・・・」
 と保之助は、ひとりうなずいた。

 宇助の叔父三平は、薩摩の追手に斬られて深手を負いながらも、逃げのびた肥後領の津奈木村でかくまわれた。
 嘉永二年(1849年)、傷の癒えた三平は、村を分断していた津奈木川に石造の大きな太鼓橋を架設した。全長十間(18m)の津奈木重盤岩眼鏡橋は、片腕は失ったものの、命を助けられた三平の恩返しであった。三平は、津奈木村にほかにも小さな目鑑橋を架けた。が、その後の三平の消息はとだえたままである。
 岩永三五郎も最晩年の嘉永四年(1851年)、和歌山藩城下に優雅な石造太鼓橋を架した。
 前年十二月四日紀州藩より肥後藩へ、城下和歌宮御旅所に急ぎ目鑑橋を築造したいので石工を雇いたい旨依頼がなされた。翌年四月十四日の祭礼の日に元藩主の渡初めをしたいという。
 三五郎は養子の大蔵と小者の鹿吉をともない、嘉永四年一月二十二日大阪にいたり、二十四日には和歌山へむかった。和歌宮祭礼の日、御成り道にもうけられた「不老橋」を元藩主がわたり、その出来栄えに大満足であった。
 橋長約八・二間(14・7m)の目鑑橋がいつ落成したかはさだかではないが、祭礼の日からわずか半年ほどのちの十月五日、岩永三五郎は種山村で没した。五十九歳だった。石匠岩永三五郎の面目にかけて、病を押しての目鑑橋架設行ではなかったかとおもわれるのである。

 さらに横道に深入りするのを気にしつつ話をつづけたい。
 不老橋築造を命じたのは、元紀州藩主徳川治宝(はるとみ)である。治宝は第十代藩主であったが、十三代藩主徳川慶福(よしとみ)がわずか四歳であったため、実力者であった治宝が補佐することになったのである。
 安政五年(1858年)十三歳になった慶福が、前将軍家定の死にともない、その血筋にもっとも近い者として、第十四代将軍徳川家茂(いえもち)となった。若年であるため田安慶頼が将軍後見職につき、またそのあとを一橋慶喜がひきついだが、この両者はともに家茂の権勢をそぐことに意をそそいだ。将軍後継者争いに敗れた意趣返しでもあったろうか。
 嘉永六年(1853年)のペリー艦隊・プチャーチン艦隊の来航をさかいに、勅許を得ぬままなされた日米和親条約・日露和親条約の調印から、日米修好通商条約調印、そして戊午の密勅(ぼごのみっちょく)を引き金とした安政の大獄、さらには安政七年(1860年)の桜田門外の変へと政局は混乱をきわめ、徳川三百年の幕藩体制の屋台骨が悲鳴をあげてきしみはじめた。
 対峙する佐幕派と尊攘派は、悪化した朝幕関係の収拾と国論の統一をはかるため公武合体策を模索し、故仁孝天皇の第八皇女である和宮の降嫁が画策された。すでに有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約していた和宮は、異母兄である孝明天皇の説得に最後まで激しく抵抗したのである。
 しかし因果をふくめられて、和宮親子(ちかこ)内親王が江戸へ下向し江戸城において婚儀をおこなったのは、文久二年(1863年)二月十一日のことであった。家茂十六歳、和宮も同じく十六歳であった。
 幕府の攘夷鎖国を条件とした政略結婚ではあったが、家茂は美しい皇女をこよなく愛し、和宮も若い公方を心から慕った。歴代将軍家のなかでもっとも夫婦仲のよい将軍と正室であった。
 文久三年(1863年)二月十三日、幕府は将軍上洛要求の勅命に屈し、家茂は攘夷実行をせまる朝廷へ釈明のため江戸を出立した。将軍としては二二九年ぶりの上洛であった。
 家茂は、朝廷において、五月十日を期して攘夷を断行するというおどくべき言明をさせられた。五月十日、これを裏で画策した長州藩だけが、関門海峡を通過する米国商船にむかって下関砲台の砲火をひらいたのである。
 和宮は家茂の無事を願い、二月二十四日から増上寺の黒本尊に御札を勧請し、お百度を踏んだ。同年八月二十九日、孝明天皇からふたたび上洛せよとの内意がくだった。家茂が海路京へむかったのは十二月二十七日だったが、和宮はこれに先立つ九月四日から春日神社で御百度詣でをした。さらに朝廷には「御用の済み次第、将軍の速やかな江戸帰還を」とねがう書面を書きおくった。
 第一次長州征伐ののち、長州ではふたたび尊攘派が実権をにぎったため、家茂は長州再征を拒否する勅書を無視して、みずから長州征伐におもむく決意をした。
 慶応元年(1865年)五月十六日、品川から海路大坂へむかう家茂は、大奥対面所で和宮の見送りをうけた。しかし、これが今生の別れになろうとは、若いふたりは夢想だにしなかったであろう。
 慶応二年(1866年)四月、延引する開戦を待つ大坂城で待望した征長の勅許を得た家茂は、しかし病床に倒れた。六月には食事も喉をとおらなくなった。報せを受けた和宮は、ただちに幕府の医官五名を大坂城につかわした。また湯島の霊雲寺に命じて家茂の回復を願う加持祈祷をおこなわせた。
 しかし和宮の祈りもむなしく、七月二十日家茂は大坂城で薨(みまか)った。享年二一、満二十歳であった。
 家茂は、その英明さと真摯さ、そして行動力があったればこそ幕臣たちに慕われ、いわば徳川幕府の希望の星だったのである。
 下級武士ながら家茂にとり立てられ軍艦奉行となった勝海舟はこのとき、故意に家茂の死を知らされなかった。だが、親交のあった幕府の奥医師松本良順からひそかに知らせをうけ、ぼう然として天を仰いだ。夜空にとうとうと流れる天の川が、幾千万もの白いひかりを灯す精霊に満たされた大河のようにみえた。
 「家茂さまの御薨去(ごこうきょ)をもって徳川幕府は滅んだ・・・」
 と、勝海舟は頭をたれて瞑目した。

 話をもとにもどす。
 弘化四年(1847年)二月十三日のことである。 
 砥用惣庄屋篠原(ささはら)善兵衛の役宅であった。
    霊台橋
 墨痕あざやかなその三文字に、桑津留橋御用掛伴七はつくづくと見入った。太々と力強く、かつのびやかな篠原善兵衛の見事な手蹟であった。
 「霊台とは、周の文王が建てたうてな(物見台)のことだ。孟子に記されているのだが」
 と善兵衛は、伴七との間におかれた火鉢に手をかざしながらいった。
 「文王は父季歴のあとをつぎ、仁政をもって国を富ましめ、周王朝の基礎をきずいた。生活が豊かになった民は、文王を慕い、おおいに敬っていた。あるとき文王は民の暮らしむきを見るためのうてなの建設をおもいたった。山上に建てるゆえ、歳月がかかるであろうとおもっていたところ、周の民が大勢喜びつどい、短時日のうちに完成した。そのうてなを、文王は霊台と称したと書かれている」
 「なるほど。その故事にならって桑津留橋を霊台橋と命名されたのでございますな」 
 と伴七は、相好をくずした。
 左様と、善兵衛はうなずいた。
 「明日渡初めにお出でになる松浦さまにお見せしようとおもい、今朝ほど筆をとった。霊台の霊とはまごころのことだ」
 「なるほど。つまりは、まごころがものしたうてなということでございますな」
 「まさにそのとおりだ。文王の仁の心に、周の民が霊をもってこたえたということだ」
 「それはそのまま篠原さまにもいえることでございましょう。人びとの不便をたすけ生活をたすけるために、私財を投げうちおのれを捨てた無私のおすがたに、延べ四万三千九六七人にもおよぶ砥用の人びとがお力をいただき、加勢にかけつけたのでございます。さればこそ霊台橋も文王の霊台と同じく、半年ほどの短期間で完成いたしました」
 「いやいやそれは伴七、そなたがわしの右腕となって村々を親しくめぐり歩き、人びとに説き明かしたからに相違ない。
 篠原善兵衛、そなたのような実直で優秀な技術者を御用掛とし、また相談役として得たことを無上の幸せと感謝いている。あつく礼をいう」
 篠原善兵衛は、火鉢越しに伴七の手をとって強く握りしめたが、やにわに顔をうつむけ、しばらくそのおもてをあげることができなかった。にわかにあふれ出した涙を恥じたのであった。

 翌二月十四日は明け方ちかくまで雪であった。
 下益城郡代松浦津直は、篠原善兵衛に導かれて手永会所から霊台橋の桑津留側のたもとに立ち、おどろきの目をみはった。
 今朝雪道を馬に乗ってやってきた松浦津直だったが、全長五四・五間(98・1m)の霊台橋に雪が見当たらないのである。みごとに雪を除かれたその石畳は、雨に濡れたようにつややかに光っていた。
 だが前方船津側の、緑川沿いの街道に居並ぶ無数の人影をみとめて、すべてを理解した。砥用の里人が郡代松浦津直のために、早朝から雪かきして手永会所から霊台橋の端までの道をつくったのである。
 「まさに篠原善兵衛の仁の心にこたえる砥用の民の霊がここにもある」
 と松浦津直は、うしろにひかえる篠原善兵衛をふりかえって微笑んだ。




  通 潤 橋 その一

 宇助が、故郷の種山で造り酒屋をはじめた。石工をやめて、である。
 なぜなのか、わからない。
 石工のような重労働をしなくてもじゅうぶん懐具合がよかったのはたしかである。
 弘化三年(1846年)十一月には霊台橋の本体工事を終え、付帯工事や仕上げ工事も大晦日までにはほぼ完了した。それで宇助はあとのことを弟丈八にまかせ、稼いだ金を懐にして、休むまもなく阿蘇郡の一宮にとんだ。豊後街道が平保木川(へぼのきがわ)をわたる地点、坂梨に天神橋を架けるためであった。
 坂梨は参勤交代の際、かならず通る要所である。宇助は、霊台橋の渡初めにも参列せず、橋長六・四間(11・5m)、幅二・一間(3・8m)、径間三・四間(6・1m)の小規模な目鑑橋ではあるが、それをわずか四か月で完成させた。
 ついで翌五月には御船にとってかえし、緑川の支流である御船川に架ける御船川目鑑橋の建造にとりかかった。霊台橋架設の際とおなじく宇助が棟梁となり、宇一、丈八をしたがえて全長三十三・三間(60・8m)の二連の太鼓橋をかけた。
 この美しくも大がかりな石橋は木倉(きのくら)手永惣庄屋光永平蔵が企画し、これに御船の富商林田能寛が浄財を住民が労力を提供した。翌嘉永元年(1848年)に完成をみた。工期わずか八か月であった。
 そして宇助は、なんの未練もないごとくすっぱりと石工をやめたのである。
 このようなわけで大忙しの宇助の懐には、大金がうなっていたのである。
 しかし宇助の商売は武家の商法に似て、うまくいかなかった。知り合いが店にやってくると、気前よくどんどんタダで酒を飲ませてしまい、ついには店をかたむけてしまったのである。
 宇助は再度転身をはかった。父嘉八と八代海干拓地で農業をはじめることにしたのである。だが新田は塩分が抜けきれず、しばらく近くの小川町に新田を借りて米をつくっていた。
 晩年宇助は仙蔵と名乗り、七十一歳で亡くなっている。

 こうして布田保之助は、想定していた夢の架け橋の重要なスタッフである石工棟梁をふたたび失ったのである。
 頼みは宇一と丈八であった。
 宇一は、霊台橋本体工事がほぼ終った弘化三年の十一月に、保之助との約束をはたすべく矢部の川内川に長さ九間(16・4m)の目鑑橋の工事にとりかかり、翌年四月に完成させた。
 保之助は、御船川目鑑橋の完成を待って、宇一と丈八に田吉目鑑橋の架設と橋に併設する井手(用水路)の延長工事を依頼した。目鑑橋は全長七間一尺(13m)の大小二連のアーチだった。
 その小さなアーチは既設の井手をまたぐことになっていたが、その古い井手七十九・六間(144m)を延長して新井手三四七間(632m)を開削するのである。延べ五九六三人の村人を人夫として、翌嘉永二年(1849年)三月完成した。
 保之助は、さきを急ぐかのように息つぐいとまも与えず、二人の兄弟に次の工事を発注した。
 日向往還と御船川とが交わる金内(かねうち)の地に、前回と同じような大小二つのアーチを持つ目鑑橋を建造するのである。もともと木製の土橋が架かっていたのだが、台風や大雨で増水した御船川にたびたび押し流された。
 全長十七間(31m)、幅三間(5・5m)、大きいめがねの径間は九間(16・4m)、小さいめがねの径間が二・七間(5m)の水路併設の金内橋だった。水路は金内橋のすぐ上手から御船川をとりこむ福良井手といい、金内橋が竣工した嘉永三年(1850年)の七月から工事が始まり、二年後の嘉永五年に完成した。井手間数九千九十一間(16・53km)におよぶ新大井手は矢部郷内では最長のものだった。
 
 嘉永三年秋の一日、保之助は金内橋の建造をおえた宇一と丈八をともない、轟渓谷をおとずれた。
 轟川の左岸が浜町台地、右岸が白糸台地である。浜町台地の傾斜地はならされて田地になっており、刈田には稲陰干しが午後の日ざしを浴びながら黄金色のかがやきを見せて幾重にもならんでいた。
 それにひきかえ、さきほど見てまわった白糸台地の村々のわずかな稔りは、悲惨というべきものであった。低地の浜町へつづく北部をのぞく三方は周りが深い渓谷であるため水源がなく、ようやく傾斜地を開墾した四十四町歩という田もそのほとんどが稔りのうすい下田(げでん)や下下田である。上田(じょうでん)はわずか八反歩余りである。畑作を主としているとはいえ、ひえ、粟、蕎麦などといったものばかりであり、日照りがつづけば全滅であった。
 南へ肩下がりする傾斜地のため平地がなく、小山のような丘陵地には雑木や竹がしげり、雑草がのび放題にのび、それらに紛れて田畑があるという具合だった。そんな貧相な棚田や畑で働くのは、そのほとんどが貧しい身なりの年寄りや子どもたちだった。働ける村人はみな出稼ぎに出なければ、その日の糧さえおぼつかないありさまだった。矢部手永の極貧の村であった。

 「この原野のように荒れはてた土地を、ほかの村々と同じように豊かな稔りの大地に変え、村人が出稼ぎをしなくても百姓で暮しをたてていけるようにしたいのです。ここを灌漑用水でうるおせば百町歩もの新田ができます。これをどうあっても実現しなくてはならないのです」
 と保之助は、広大な荒蕪地にぼう然とたたずむ宇一と丈八に力をこめていった。
 「・・・・」
 ふたりは声もなく、目の前に広がる荒れ野同然の大地に視線をただよわせた。
 「そのためには、莫大な資金と労力を要します。しかし最初に白糸七か村に救済の手をさしのべれば、他の村々からおおきな反発と不満をまねくのは火をみるよりあきらかです。わたしは、まず白糸以外の六十九か村がひとしく富むことを優先させました。そうすれば六十九か村の生活が豊かになった暁には、喜んで白糸台地の救済に手を貸してもらえると信じたからです」
 そういった保之助の顔は、自信にみちていた。 
 「わたしはこれまでに、白糸の里をのぞく郷内にもれなく道普請をおこなってきました。旧道の改修はいうにおよばず、新道百四十六か所、およそ二十五里(97・5km)におよぶ新道をはりめぐらせました。そして大小十基のめがねを架け、よりいっそう交通の便をはかりました。この道路の整備によって、人の往来や物の流れも頻繁になり、浜町を中心とした商いがめざましく活発になりました」
 「そのことは小野尻に住むわしらにも実感としてよくわかります」
 と、宇一がいった。
 「道の便がようなって助かると、村の衆が喜んでおりました。わしらが今年金内橋を架けたときも、みんなが涙を流して喜んでくれました」
 そういって丈八が、「ウーさん、そうだったな」と宇一に同意をもとめた。
 「ああ、そうだったな、ジョーさん」
 と、宇一がうなずいた。
 「あの工事も大変でしたが」
 と、木綿の仕事着に身をつつんだ保之助が、浜町へくだる小道をたどりながらいった。
 「ウーさんとジョーさんおふたりのおかげで新田が数十町歩もふえました。これまで多くの井手を開削し、古田の改良と田地の開墾につとめた結果、矢部手永の米の生産高は以前とはくらべものにならぬほど多くなりました。
 また川の改修と築堤工事のおかげで洪水被害の軽減を実現できたことも米の増産につながりました。そのようなわけで藩庁の覚えもすこぶるめでたく、おほめのことばもいただきました。郷内の利水・土木工事の夫役で、村人は臨時収入の賃銭を得ることができ、生活に余裕が出てきました。
 いま矢部手永には、お奉行とご郡代の許可をえて備蓄してきた資金が会所官銭として積みかさなり、他の手永とは比較にならぬほど莫大な額になっています」
 保之助の口もとには、控え目ではあるが満足げな微笑がただよっていた。
 通潤橋着工十年前の天保十三年(1842年)、保之助は奉行と郡代の許可をえて、会所官銭として銭九一四貫、米五九六二石を備蓄していた。これは通潤橋総工費七一一貫三百六匁七分二厘(約三八億一千万円)をはるかにうわまわるものである。
 しかし保之助は全額出資するつもりはなかった。蓄えた官銭はあくまでも不時の災害や工事に備えたものである。肥後藩から三二七貫七三二匁九厘(約一八億円)を借入れ、残りを会所官銭と郷内の富農や富商の寸志(寄付金)でまかなうのである。
 ついでながら、天保十三年の奉行は前年着任したばかりの真野源之助であり、郡代は上妻半右衛門であった。真野源之助は、保之助が学んでいた当時の時習館句読師であり、保之助が惣庄屋に任ぜられた前年上益城郡代になった。数年後真野源之助は奉行に昇進し、上妻半右衛門があとをついだのである。
 矢部郷と白糸台地の窮状をよく知るふたりはともに、布田保之助のよき理解者であり後援者であった。

 保之助、宇一、丈八の三人は、浜町台地と白糸台地が肩をよせあうようにしてもっとも狭まった轟渓谷を目の前にしている。
 「ジョーさん、これは高いな。おそらく百尺(30m)はある」
 と宇一は、白糸台地の崖を見あげながらつぶやくようにいった。
 「ああ、たしかに」
 と、丈八もつぶやくようにあいづちをうった。
 そそり立つ阿蘇熔結凝灰岩の断崖が、両側から威圧するように立ちはだかり、ふたりをあざけるかのようにみおろしている。
 保之助は、ふたりの様子に不安をいだいた。轟川の左岸にたたずむ宇一と丈八は、百尺にもおよぶ断崖に視線を釘づけにしたままだった。
 保之助はふとおもいだした。霊台橋の工事がはじまり、五月雨の降る船津峡に宇助たちの石工小屋をたずねたおりのことを、である。
 保之助は、あのとき、宇助が設計した橋のたたずまいの優美なことをほめそやしたが、しかしいいたかったのはそんなことではなかった。巨大な霊台橋がみごと船津峡に架かるかどうか、ただそのことだけが知りたかったのである。
 しかし保之助は、正面から橋が落ちることなくみごとに架かりますかとは聞けなかった。石工棟梁宇助の面子にかかわることである。とはいうもののそれがいちばん肝心なことであった。
 霊台橋の成否がそのまま轟渓谷に架ける水道橋の成否を左右する大問題である。霊台橋が成功すれば、それをそのまま轟渓谷にうつせばいいことである。が、保之助は聞かずじまいだった。

 霊台橋が架かったいま、長いあいだ夢見た大石橋が実現しようとしているのである。
 「あの白糸台地の崖とこの浜町台地の崖のあいだにめがねを架けてほしいのです。そうすれば笹原川から井手を掘ってはるばる引いてきた念願の水をわたすことができます。その水は命の水とも豊穣の水ともなって、乾いた白糸台地をうるおしながら流れくだり、白糸七か村に幸せと繁栄をもたらしてくれます」
 といった自分自身の熱いことばに、かぞえて五十になる保之助は、元服したおり万坂峠で誓った決意をおもいおこして、身ぶるいするほどの感動をおぼえた。
 しかし、
 「無理です」
 と、宇一がぼそりともらした。
 「えっ」
 と保之助は、冷水を浴びせられたような気がして宇一の顔をまじまじとみた。
 「無理です。技術的に無理です。あのように高いところにめがねを積むことは不可能です」
 と、丈八が冷静にいった。
 「霊台橋でさえ、高さ五十四尺(16・4m)もありました。兄宇助はあのように底ぬけの楽天家のようにみえますが、そのじつ砥用の惣庄屋篠原(ささはら)さまに仕事を請負った日から、神仏に加護を願わぬ日とてありませんでした。そうすることで落橋の不安と恐怖に耐え、完成にこぎつけたのです。それほどの重圧をあたえた霊台橋の高さは、限界に達していました」
 と丈八は、保之助にみせたこともない硬い表情をした。
 「高さ十二尺(3・64m)の基礎石垣をくめば、それに径間十間(18・2m)のめがねをすえることは可能でしょう。これで高さ四十二尺(12・7m)になります」
 と、宇一がいった。
 あまりにも小さすぎるのである。ふたりは百尺の断崖に気をのまれてしまったのであろうと、保之助は唇をかむおもいがした。百尺もの深い谷に橋をわたすのに、高さ四十二尺ではなんの役にもたたない。それも霊台橋よりずっと短いめがねというのである。

 保之助は、思案投げ首の体である。百尺の谷に胆(きも)をちぢめた石工に勇気をあたえるなにかいい知恵はあるまいかと、役宅にもどった保之助は考えつづけている。すぐ目の前にあるとおもい、手をのばした夢の架け橋が、一瞬にして遠のいてしまったのである。どうしたらよかろう。思考は堂々めぐりするばかりである。
 「お茶を」
 妻の満がいつのまにか茶をいれて、縁側に座る保之助のかたわらに湯のみをおいたのに気づかなかった。満は今年、四十七歳である。姑の壽茂は七十になっている。
 「ああ、満か。気づかなかった。いただこう」
 と、保之助は質素な湯のみを手にとり、芳ばしい香りをはなつ茶でのどをうるおした。茶の栽培も保之助がおおいに奨励し、郷内のいたるところで茶畑を目にすることができるようになった。いまでは矢部郷を富ます物産のひとつに成長している。ほかにも養蚕を奨励し、櫨(はぜ)から漆をとって漆器の製作もすすめた。
 「なにを思案なさっておられるのですか」
 と、満が笑顔をむけた。着古した木綿絣に前掛をして座っている。
 また横道にそれるが、布田家の普段の質素な暮らしぶりをしめす古文書がある。
 今年の正月、保之助が上益城郡代上妻半右衛門に届け出たものである。
    
    私母当年七十歳に罷成申候処以前より持使之品も
    御座候に付間には御例外の衣類等相用させ度候に付
    此段御届仕候 以上
     
      嘉永三年正月                     布田保之助
  
         上妻半右衛門 殿
 
 母壽茂が着古した着物ばかりなので、孝養のため身分相応以上の着物を着用させたいとおもい、郡代に届け出ている。奢侈を禁ずる国法をおもんばかり、藩庁に届け出て許可をえたうえで安心して母親によい着物を着せたいという保之助の用意周到さと、また奢侈に流れぬつつましい生活をうかがい知ることができる。
 
 「ウーさんとジョーさんが、轟川の谷の深さに恐れをなし、百尺の高さにめがねは架けられぬといっている。困ったものだ」
 と保之助は、笑顔の満に愚痴をこぼした。満は、いかなるときも一家の太陽のごとくかがやく笑顔をたやしたことはなかった。保之助はその笑顔に背中をおされて、今日まで来たといっていい。
 「どのくらいなら大丈夫と申されるのですか」
 「四十二尺というておる」
 「それでは半分にも足りませんね」
 と、満が首をかしげた。
 「そうなのだ。それでどうしたものかと考えあぐねているところだ」
 と、保之助は湯のみをたなごころにつつんで、庭のうめもどきに目をうつした。小春日和のからりとした青空に、赤い小さな顆粒が左右に張った枝一面にびっしりと張りつけたようにみえる。
 しばらく考えていた満が、
 「先日旅のお坊さまがたまたま立ちよられましたおり、このような話をしてくださいました」
 と、語りはじめた。
 昨年、豊後国(大分県)岡藩の柏原村(現、竹田市)という寒村におおきな目鑑橋が完成した。大野川の支流山崎川が阿蘇外輪山の台地を深くけずって、まさに岩の戸を押し立てたような険しい谷に石工久米蔵、後藤桧五郎の二人が、村人たちと力をあわせ、二年を費やしてその岩戸橋を架けた。めがねの渡し十五・五間(28・2m)、幅二・四間(4・4m)、径間九・六間(17・4m)といい、岩戸橋の橋長は霊台橋のそれとさほどの差はない。
 この強固な石橋の完成によって陸の孤島であった柏原村の安全な交通の便が保証されたため、農林産物の運搬や生活物資の流入がにわかにさかんになり、経済的、文化的発展がおおきく期待できるようになった、と旅の僧が語ったという。
 そこで満が提案した。
 「豊後国も目鑑橋の建造がさかんだそうです。この岩戸橋のほかにも筏場(いかだば)眼鏡橋、虹澗橋(こうかんばし)などといった大きなめがねが山のなかに架かっているとか。そんな他国のおおきな石橋をみれば、きっとおふたりも発奮して轟の谷にたかだかと大きなめがねをつくる気になるのではありませんか」
 「それだ」
 と、保之助はおもわず膝をうった。
 「満のいうとおりだ。長崎にも目鑑橋がある。ウーさんとジョーさんふたりを豊後と長崎にやろう。いろいろなところのめがねをみれば、刺激されて意欲もわいてこよう。ふたりとも元来、それだけの技量と才能のある優れた石工なのだから、まちがいなくわたしの期待にこたえてくれるだろう」

 保之助は日を置いて、小野尻村に宇一と丈八をたずねた。
 「どうでしょう」
 と、保之助は話をきりだした。
 「豊後や長崎にも大きなめがねがあります。その地形によってめがねの構造や形もそれぞれちがうでしょう。行ってそれらを参考にし、轟渓谷に架ける新たなめがねの構想をねってみては」
 そういって保之助は、ふたりに他国の目鑑橋の見学をすすめた。
 宇一と丈八は、百尺の谷の重圧からまったく解きはなたれたわけではなかったが、種山石工の意地だけはとりもどしていた。
 「豊後や長崎のめがねはまだみたことがありません。みてみるのもおもしろいでしょう。ジョーさん、どうだ、行ってみようか」
 と宇一が、丈八をかえりみた。
 「ああ、ウーさん。行こう」
 と、丈八が答えた。
 そんなふたりの様子をみて、保之助は胸をなでおろしたのであった。

 翌日の早暁、宇一と丈八が日向往還をたどり、豊後国をめざして旅立っていった。朝まだき太陽の光が、かすかにふたりの影をとらえていた。




  通 潤 橋  その二

 宇一と丈八が豊後の山々をめぐり、肥前長崎の川筋をたずね歩くなどしてもどってきたのは、暮もおしつまったころだった。
 役宅に挨拶にやってきたふたりの顔をみたとき、保之助は心がぱっと明るくなるおもいがした。顔つきが旅立ちする前とはすっかりかわっており、いきいきとかがやいてみえたのである。満が、ふたりの前にお茶と干し柿を置いた。
 「いかがでしたか」
 と保之助は、宇一と丈八の顔を交互にみくらべながら、いくぶんはずんだ声でたずねた。
 「やはり他国のめがねをみて歩くのはおおきに参考になりました」
 と宇一が、日に焼けてはいるが、引きしまった端正な顔をほころばせた。
 「それぞれの地形や状況にあわせて、土地の利にかなうよう工夫がなされておりました。土地の石工やめがねにかかわった村のひとびととも話をしました。喜びに満ちたそんなひとびとの顔を見ているうちに、いつしかわしらの臆病風もどこへやら吹き飛んでしまいました。そうするうち白糸台地のあの貧しい光景がおもいだされ、よし、白糸の村人たちのために大きなめがねを架けようという勇気と意欲がわいてきました」
 そういって、宇一は湯のみに手をのばした。
 「ウーさんと話あったのですが」
 と、丈八が話をついだ。
 「轟の谷に高さ十一間(20m)、径間十五間(28m)のめがねを架けましょう。が、橋の高さはこれが限度です。それに大量の水を満たした石樋(いしび)をめがねに載せるとすれば、よほど頑丈なものにしなければなりません。そうなればめがねそのものの重量とあわせて相当なものになるでしょうから、めがねの橋脚を支える基礎石垣は普通のものでは支えきれません。それでわしは、熊本城の天主をささえるあの大石垣をみてみたいとおもいます。あれほどの大きな天主閣をのせた石垣の武者返しを、この目でたしかめてみたいのです。あれであれば、十一間の高さにある大石橋をじゅうぶん支えられるとおもうのです」
 「・・・・」
 保之助は、考えこまざるをえなかった。
 問題が、二つあった。
 ひとつは橋の高さである。最初の案よりだいぶ高くなったとはいえ、十一間とは白糸台地の七合目あたりの高さである。これではそれより上の土地には水がまわらないことになる。これでは困るのである。
 もうひとつの問題は、天主閣のある本丸に入る許可がおりるかということである。武者返しは天主閣に近づけぬための策である。その秘密を、一郷の石橋建設のために明かすようなことをはたして藩が許してくれるかどうか。いずれにしても頭の痛む問題だった。
 保之助はしばらく考える猶予をくれるようたのみ、宇一と丈八のふたりをかえした。

 朝の光が夜の明けるのを待ちかねたようにあふれ出し、師走の障子をやわらかく白くかがやかせている。
 保之助は文机を前にしていた。郡代上妻半右衛門にあてた本丸入場の許可願の筆をとったところだった。
 「白糸七か村二百六戸の長年にわたる窮状を打開するため、いよいよ轟渓谷に石造の用水路橋を架設する時期が到来いたしました。
 その準備のため石工二名を豊後と長崎に派遣せしめたところ、常水面よりの橋高十一間、めがね径十五間ほどの目鑑橋が適当との案をえました。
 しかし橋の上に重たい水路をのせるため、堅牢な大石橋がいっそう重くなり、その橋脚を支える基礎石垣が頑丈にならざるをえません。その基礎石垣の参考として御城の本丸天主閣の武者返しを見学するご許可を得たい」という旨を書いた。
 その書状を、保之助は御船郡代所に持参し、郡代上妻半右衛門に願い出た。上妻半右衛門とは、すでにのべたが、昵懇のあいだがらであった。上妻は領内を郡代として転勤をかさね、土木・治水事業にも多くの業績があるだけに、保之助のこれまでの郷内での事業にたいしてもおおきな理解と助力を惜しまなかった。そして保之助の夢の架け橋についても白糸台地の灌漑の必要性についても従前から承知していた。
 「委細承知いたした」
 と、上妻半右衛門は書面から目をあげていった。
 「御奉行真野源之助どのに申しあげ、本丸入場のおゆるしが下されるようお願いいたそう。御奉行は矢部郷や白糸台地の事情にも通じておられるし、また布田どのとは子弟の間柄でもあられるゆえ、良しなにおとりはからいくださるにちがいない」
 といって、上妻半右衛門は保之助を安堵させた。上妻は、真野源之助が時習館句読師として保之助に朱子学の本領である実践躬行(きゅうこう)を説いたことを知っているのである。
 
 年がかわり、梅がほころび、そして花びらがこぼれ、やがて桜が蕾をほどき、花を咲かせ、満開になったころ、藩から本丸見学のゆるしが出た。
 熊本城の石垣は、前にのべたごとく、加藤清正が近江から連れてきた穴太(あのう)石工が築造したものである。裾をひろげた袴様の石垣がゆるやかな勾配で立ちあがり、八合目あたりで天主閣にむかってそりかえったあげくほとんど垂直になる、その壁面は、なんぴとの侵入もゆるさぬ仕組みにみえ、それゆえ武者返しといわれるが、それは二義的なことであるにちがいなかった。
 しかし壁面が袴のように裾を広げて結ばれた石垣の角は、一筆をもって勢いよく描きおろしたように鋭くかつ優美な曲線であり、見る者をして感嘆せしめるほどである。
 知らせをうけた保之助は、宇一、丈八とともに満開の桜にうらうらと染められた熊本城本丸をおとずれた。喜び勇んで武者返しに対面した宇一と丈八は感嘆のため息をもらしたが、しかしそれは風に舞う桜の花びらが散りかかる大石垣の優美な曲線に感心したからではなかった。
 「ジョーさん、この武者返しの反りの見事さは、腕たけた石工でなければわかるまいな」
 と宇一が身をよせて大石垣に手をふれ、大天主を見あげながらいった。
 「ああ、そうだな。もしこのような勾配をつけず急角度のまま高く積みあげれば、いつの日かこの大石垣は天主閣の重さに耐えられず、おおきくはらんで崩れ落ちるにちがいない」
 と、丈八も大石垣を手でたたき、天主閣を見あげた。五層の大天守閣がおおいかぶさってくるのである。その全重量をひきうける袴をひろげたような大石垣の力強くも巧緻な建築力学的構造に、丈八は石造建築家の同業者として舌をまいた。
 「負けたな、ウーさん」
 と丈八は、となりの宇一を見た。
 「ああ、負けた」
 と、宇一はうなずいた。
 穴太石工は信長の安土城や清正の熊本城などの城閣石垣の高度な築造技術を、どこでどのようにして学んだのであろうかと、ふたりはつくづくいぶかしんだことであった。
 ともあれ、宇一と丈八は、本丸の武者返しから新たな目鑑橋をささえる堅牢な脚部の確たる構想をうることができたのである。
 しかし保之助には、いまひとつ課題が残されている。

 ここに逸話がある。
 白糸台地にできるだけ高く水をあげるために保之助がいかにして吹上樋(ふきあげどい)をおもいついたかを説明するときよく語られる話である。
 ある日、矢部手永会所の一室で保之助が工事関係者の石工棟梁はじめ大工棟梁、会所役人などと寄り合い、なんとかして笹原川から導いた用水を白糸台地の八合目あたりまであげる工夫がないものかと話しあっていた。 
 そこへにわかの激しい雨であった。やがておもてでごぼごぼと水の噴き出るような音がしはじめた。保之助は立って障子をあけた。木の縦樋(雨樋)の下の部分が腐って破れているため、そこから激しく雨水が噴きあがっていた。
 保之助は何げなくその様子をながめていたが、やにわに「そうだ」とおおきく手をたたいて顔をかがやかせた。水は高いところから管をとおって落ちれば、落下する力で元の高さまであがろうとする。それを応用すれば、笹原川の水を白糸台地の上まで吹きあげることができるにちがいないとひらめいたのである。一同その話を聞き、おおいに感激したという。
 いかにもありそうな、なるほどとうなずける話ではあるが、じつのところその真実はよくわからない。
 好奇心が強く研究熱心な保之助は、灌漑技術として石堰や井手を、通水形態として管路が川床の下を横断する伏越しや川の上をわたる上越し(うわごし)とともに、現在では逆サイホンとも連通管ともよばれる吹上樋の原理を知識としてたくわえていたはずである。
 土木用語大辞典によれば、逆サイホンとは「開水路の一部区間に設けられた管路流通構造物。水利学上のサイホン効果によるものではなく、その形状から逆サイホンといわれる。水路が横断するときに用いられ、逆サイホンの両側は自由水面を有し、その水位差により流れが生じる」と定義されている。
 その具体例が身近に、廻江(まいのえ)手永の廻江村(現、富合町廻江)にあったのである。吹上板樋とよばれる。300ヘクタールの水田を灌漑している。
 川の水を引いた水路を地中をななめにくだる板樋に通じ、その落ち込みを2・7mとしている。板樋はそのまま地中を水平に30mほどのび、そこからななめに上向いた板樋が高さ1・8mで水平水路につながっている。水位差は0・9mである。その高低差によって落ちこんだ水は水圧をえて、板樋のなかを勢いよく走り、1・8mの高さを吹きあがる仕組みになっている。
 保之助はすでに各地に施工されている伏越し、上越し、吹上樋を見聞すべく日向、薩摩をめぐり、島津邸の噴水池などもみてまわったが、いずれも規模が小さく、役にたちそうになかった。また藩主邸である花畑御殿(現、花畑町)の水道や石樋の見学を願い出て藩上層部のゆるしも得たが、結局、廻江村の吹上板樋をモデルに吹上樋を試作し、通水実験することにした。嘉永四年(1851年)十月十二日のことである。
 
 とつぜん、また横道にそれる。これよりおよそ十か月ほど前の嘉永三年十二月九日、長州の吉田松陰が初めて肥後をおとずれ、宮部鼎蔵と初対面をはたしている。
 関門海峡をわたって九州の旅をかさねる松陰が長崎を発つおり、砲術家高橋浅五郎に肥後藩数学師範の池部啓太に会うようすすめられた。池部啓太は数学師範でありながら高島秋帆に火術を学んだ砲術家でもあった。紹介状をもっておとなった下益城郡(しもましきのこおり)山崎にある池部啓太の屋敷で、松陰は同流の山鹿流兵学師範である鼎蔵を紹介された。
 談論風発し意気投合した松陰は、予定を一日のばして鼎蔵と語りあかした。藩命により江戸へゆく鼎蔵は、江戸での再会を望んで松陰との別れを惜しんだ。江戸遊歴を切望した松陰は藩に願い出てゆるされ、参勤交代の供としてはじめて江戸へ出、そこで鼎蔵と再会し、交友をふかめた。
 嘉永五年、なにごとも自分の目で見、肌で感じようとする松陰は宮部鼎蔵、江?五郎と東北旅行を計画したが、手違いで藩の旅行手形の発給が遅れたため、それを待てば出発の日に間にあわず、鼎蔵らとの約束を守れなくなると、松陰は脱藩して江戸を発つのである。
 松陰にとって脱藩してまで友人との約束をまもることは、人間の本義にかかわることであった。人間の本義とは一諾をまもる、約束をまもることだと松陰はいう。孔子いわく「小を忍んで大を謀る」と。このことで士籍剥奪・世禄没収の罪になろうとも、大いなる義の前ではそれは小さなことにほかならないである。むしろ喜んで罪をうけよう。一諾をまもることさえできぬような人間が、天下の大事をなす英雄にどうしてなれようか。
 つねに原理にてらして万象をみる松陰にとって、脱藩という大法をおかすことは当然の帰結であった。
 
 話をふたたび嘉永四年十月の時点にもどす。
 保之助は大工棟梁茂助に指示して、厚さ4・5cmの松板で内径82cm角という欲ばった板樋をつくらせた。白糸台地に多量の水をわたしたいという気持のあらわれであったろう。90cmごとに木のタガを締め、落ち込みは3m、吹上高さは1・8mとした。実験場は轟川である。
 だが完全な失敗であった。高低差が大きすぎたのである。白木のみごとな板樋は、取入口から落としこまれた大量の水が生じさせるすさまじい水圧によって、雷が落ちたような大音響とともにふき割れてこなごなになった。
 保之助は、はじめて水圧という概念とそのすさまじさを知った。廻江の吹上板樋は高低差0・9mであり、保之助の吹上樋よりひとまわり小さな内径75cm角で地中に埋設されているため、大きな水圧にも耐えることができるのである。
 二度目は翌年二月十四日、実験場は井手の水源地に予定している笹原川である。笹原川から分水した野尻井手がそばを流れているこむかりせ(現称、こぶれがし)という人目につきにくい寂しい場所である。前回の失敗にこりて人目をさけたのかもしれない。
 水圧に耐えられるよう板厚を7・5cmと厚くし、前回とおなじサイズの吹上樋をつくった。これを笹原川の左岸から右岸へ渡し、水は野尻井手から引きこむのである。
 保之助はふりむき、おおきく手をふって合図した。水がどっと勢いよく板樋のなかをはしりぬける音が、息をつめて見まもる保之助の緊張を高めた。
 「あああー」
 保之助のかたわらで大工棟梁の茂助が、悲鳴のような声をあげた。四角い板樋がみるみる恐ろしいほどにふくらみ、すさまじい音をたてて板樋数か所がはじけ散った。
 再度の失敗である。保之助は、水圧の威力に頭をかかえこむほどにうちひしがれた。
 
 その日意気消沈して役宅にもどった保之助に、満が熱い茶をすすめた。
 保之助は湯のみを手に、通水実験の様子をうつむきがちにぽつりぽつりと語った。 
 「旦那さま、失敗は成功への一里塚でございましょう」
 満はそういって、保之助にひまわりのような笑顔をひらいてみせた。
 「たしかにそうだな」
 保之助は、闇夜に一条の光を見い出したおもいがした。湯のみをかかえて幾度もうなずいた。事がうまくいかず気おちしたとき、いつもこの笑顔に救われれた。保之助はつくづくありがたいとおもったが、口に出していったことはなかった。
 一晩熟慮した。板樋だけでは無理があるとおもった。保之助は水圧が強くかかる個所を石管にかえ、板樋と交互に使ってみたが、石管のつなぎ目の漆喰(しっくい)から猛烈に水が噴き出した。
 この吹上樋が完成しなければ、目鑑橋ができてもなんにもならないのである。以後、試行錯誤の繰りかえしであったが、保之助はくじけなかった。
 土台石の左右に溝をきり、コの字にくり抜いた石管をはめこみ、漆喰でつないでみたが、漆喰が吹きだしたり、石管が割れたりはずれたりした。轟川の川床の凝灰岩を長方体にきりだした石材のなかを四角にくりぬき、穴の周りに2cm幅の三角形に溝を切りこんだ。これに漆喰をつめて石管をつなぐのだが、すぐに漆喰がかわいて、隙間から水が漏れだした。あらたに良質の漆喰の開発も必要になった。
 漆喰のかわりに溶かした鋳鉄を流しこんでみたこともあった。穴に先を赤く熱した鉄の棒を二十回ほど差しこみ温度差をなくしたのち、溶かした鋳鉄を流しこむのである。冷えるとちぢんで隙間ができるので、塩水をかけてサビで漏れをふせごうと試みたが、やはり失敗した。
 松板の厚さも9cmにかえ、水圧のあまりかからない板樋のタガの間隔も45cmにちぢめたが、板は弓なりにそりかえり、水が吹きあがる個所の板樋や石管が頻繁に破壊された。
 水圧の高い個所はすべて石管にし、90cm角の方形の石材に30cm角の通水孔をくりぬいて、これまでの二倍以上の厚さにするなどあらゆる工夫をかさねた結果、水は板目を伝って漏れるものの、かろうじて吹上12・7mの吹上樋ができたのは三月十三日だった。

 しかし吹上12・7mでは高すぎて無理があるのではないかと、危惧する声がつよかった。保之助自身も実際に施行して失敗したというのではとりかえしがつかないという不安があった。
 吹上を低くすればそれを補うためにおのずと橋を高くするしかない。高くするとなれば技術的な問題が生じ、費用もかさむ。保之助は石工棟梁宇一、副頭丈八のふたりにはかった。
 丈八は、吹上台目鑑橋(のち通潤橋とあらためた)の架設を予定する轟渓谷の現場を前に指をあげていった。
 「布田さま、ご覧ください。両岸の岩盤が水面から十二尺(3・6m)ほど立ちあがっております。ここを切りこみ、橋脚をすえ、霊台橋と同じ大きさのめがねにすれば橋の高さは七十尺(21・4m)ほどになります。これに吹上十九尺(5・8m)の吹上樋を置けば八十九尺余(27・2m)の高さ、すなわち白糸台地の九合目あたりまで水を届けることができます」
 このころ丈八は、すぐれた技術者としての秘めたる才能をおおきく開花させたようであった。丈八は通潤橋が完成したのち苗字帯刀をゆるされ、橋本勘五郎と名乗る。明治六年、保之助が通潤橋の功績によって明治天皇から天杯を下賜され、同年その保之助の推薦で新政府の土木寮雇となって上京し、万世橋、浅草橋、京橋などの目鑑橋を建造している。
 「その橋の高さで、めがねが落ちぬという自信がありますか」
 と保之助は、もっとも肝心なことをただした。
 「熊本城の武者返しの石積みにならって、十二尺の高さにある橋脚をまもる強固な鞘石垣を築けば、まず落橋の心配はないと考えます」
 と、丈八はきっぱりといいきった。
 「橋脚を刀の刃先とみれば、それを包みこんで納める鞘のようなものなので鞘石垣と称しました。あの天主閣をささえる盤石の石垣を、ここにつくってお目にかけます」
 石工棟梁宇一のかがやく双眸には、轟川の岸に裾をひろげた鞘石垣がめがねの脚を堅固につつみこんで堂々と立つさまがみえているようであった。

 保之助は、吹上樋を完成させなければならない。
 保之助の描いた吹上樋の完成図によれば、轟川をはさんで白糸台地とむかいあう浜町台地に笹原川から導いた用水を引きいれる取水池があり、その取水口から対岸白糸台地の吹上口までの直線距離は125・9m(以後寸方は、煩雑になるためメートル法に統一)である。
 この取水口から23m前方に全長75・6mの水平な送水管が垂直に7・5mさがっている。この送水管の先端から26m先に5・8m高くなった吹上口があり、その高低差は1・7mである。送水管の両端は傾斜した送水管をもってそれぞれ取水口と吹上口とにむすばれている。取水口から落とされ送水管をはしって吹きあがった用水を吹上池に溜め、上井手(うわいで)をもって白糸七か村の田畑に配水し、飲用にも供する。
 吹上樋の吹上が5.8mであるから、轟川の水面からの橋高21・4m、都合27・2mとなり、これは白糸台地約30mの九合目の高さである。保之助が望んだ八合目辺りの高さを越えている。この石造の送水管は目鑑橋の背に三列配置されている。いずれかが修理中であっても、残り二本でじゅうぶん田畑に給水できるよう配慮されている。
 保之助は、上にのべたように吹上樋は松板を廃し、すべて石管にかえることにした。が、問題が二つある。金と漆喰である。
 橋をあげ、めがねの大きさを霊台橋に準じ、鞘石垣を築き、石造の送水管を三本通すとなれば、予定していた予算の三倍になるのである。すべての費用を藩から借り入れることはまず無理としても、財政が逼迫する藩がどれだけ入目銭(藩の出資金)を融通してくれるかということである。
 入目銭は、郡と手永との地方主導・民間主導である地方公共事業が地元だけの力では力不足で藩の援助が必要な場合、その事業計画・有益性・返済計画などが審査され、許可されたものに貸付られる藩の公的な融資である。
 この時期肥後藩は江戸、大坂、京などの豪商から借りられるだけ借りて踏み倒しており、かげで貧乏細川とののしられ、おおいに嫌われていたのである。しかし藩内に一揆がおこれば取潰しになるが、いくら借金を踏み倒しても幕府からとがめをうけることはなかったのである。
 
 そして、石管を強力に接着する新しい漆喰の開発が急務であった。三本の送水管となる石管の総数は六五九個である。これらをつなぐ従来の漆喰ではもろく、水が吹きあふれるのである。保之助は豊後府内(岡藩)に優れた漆喰の作り方があると聞き、わらじの紐をむすぶのももどかしげにあわただしく旅立っていった。
 であるのに、である。
 保之助は、吹上板樋の実験に二度目の失敗をした嘉永五年二月、肥後藩庁にたいし綿密にねられた吹上台目鑑橋建設の奉願覚(建設許可願)を郡代上妻半右衛門を通じて提出しているのである。
 2004年に編纂された矢部町(現、山都町)の「通潤橋架橋 150周年記念誌」のなかでもこの点に疑問が呈せられている。
 「保之助としては、水路橋にとって一番肝要なところが未解決のまま藩への申請を行った事になる。果たして何事にせよすべからく、水も漏らさぬ緻密さをもつ保之助にあり得たことであろうか」
 この疑問を解く鍵として、語り手であるわたしは、さきにのべた吉田松陰と西郷隆盛の言葉をかりたい。
 思想を完遂するものは、松陰は狂といい、西郷は僻論(へきろん)であると断言している。
 松陰は、狂人になることこそ自分の理想、とまで極言している。
 はたして布田保之助の思想とはなんであるか。それはいうまでもなく、布田保之助の生涯をかけた一大事業たる白糸台地の救済であり、白糸七か村の人びとを他の矢部郷民とひとしくしあわせにするということをおいてほかにない。そのためには、どうあっても水道橋建設事業を完成させなければならないのである。
 
 保之助は狂した。
 狂した保之助は、あたかも天の黙示を読みとったかのようであった。であればこそ、嘉永五年の二月に吹上樋の問題を未解決のまま奉願覚を提出したのである。
 天の黙示とは、翌嘉永六年のペリー艦隊の電雷のごとき来航である。
 このとき、おおいに狼狽した幕府に浦賀沿岸警備を命じられた肥後藩では、ただちに江戸詰藩士六百余名をおくってその任につけ、肥後本藩からは家老小笠原備前ひきいる藩兵百八十名余が大筒二門をひきながら、ひたひたと豊後街道をのぼり、二重峠を越えて豊後鶴崎にいたり、海路大坂をめざしたのである。
 保之助の奉願覚提出がこの嘉永六年になっていれば、幕末という動乱期に突入したこの時期、佐幕派たる肥後藩は年来の借財の増加にくわえ、天草地方や相模湾警備を命じられ、さらには大量の銃砲の鋳造による軍備の拡充など軍事費が急増し、藩の財政負担がいっそう増大して、肥後藩ではとても銭三二七貫七三二匁九厘もの入目銭など出せなかったであろう。ために保之助は、藩への申請のために吹上樋の完成を待っていられなかったのである。
 保之助は走りながら考えるざるをえないと、肚をくくった。
 
 ねりにねった奉願覚のなかで保之助は、せつせつと説いた。
 「南手境・五老ヶ滝上に至り、川並より十六間(約29m)上に井手立てるに相成り、相方の山合にくくり居き候処にて台は、共に高さ十一間四合(約21m)の目鑑橋をかけ、その上に、四間六合(約8m)に吹上樋を居き候えば、川並より十六間の高さに相成りて、南手持口、小原・長野にては、山々の半覆を通し通水つかまつり候えども、犬飼・田吉・小ヶ蔵にては、山々の八、九合目、白石・相藤寺に至り、井手を下げ候て、山の頂に移し」
 と、この水道橋が完成すれば用水を白糸台地と同じ高さにあげることができるとしているが、実際の水の吹上は白糸台地の九合目辺りまでである。
 南手(矢部郷南部)境の小原に長い隧道を掘削し、用水はそれを通って犬飼・田吉・小ヶ蔵の丘の八、九合目にいたり、白石・相藤寺では山の頂上に達しと、上井手は傾斜地である白糸台地の尾根部分に沿って順次村々の千枚田に配水できると解説している。
 本流を分水した支線二十三本を含めた流路の延長はおよそ11kmである。
 「無毛程の地面、田に相成り候えば、而して古田に勝る取実つかまつり、干田も熟田に相成り候。長野外六ヶ村では、呑水汲み候にも、手遠く、かまどかまど多々これあり、然るに、村中を通水つかまつり候につき、被是に一旦、ひとかどの御救いにて、追年一帯、地面変地つかまつり、成りたちの基本に相成り候」
 とつづけ、多大なる入目銭の援助によって白糸台地の原野に上井手(うわいで)・下井手(したいで)を開削して古田を生きかえらせ新田をひらき、飲み水にも不自由なくなれば、白糸台地七か村二百六戸の百姓としての暮らしが成り立つとうったえている。
 下井手は通潤橋の下を流れる轟川のわずかばかり上流右岸を取水口とし、川をなかば堰きとめ、ただちに熔結凝灰岩の岩壁を槌と鑿をもって掘りぬき、高低差20mの谷間の多い白石や相藤寺まで支線五本もひき、延長約6kmに水をとおした。
 上井手・下井手とも同時に工事を開始し、また開田事業も井手と前後して白糸の農民総出でとりかかった。

 「右開畝の儀御本地(登録された)畑と申し候ても平面少なく、片下り多くこれあり候につき、肥土は一旦掘り寄せ置き底土を以て地撫しつかまつり候にて肥土持入候につき開くに費多く、竹木草立とう山々は、下りの所につきなお更手入多く、深く掘り候ところは鶴嘴をつかまつり候につき、開く手の入れよう殊に強く要し、無毛の地は底土から掘返し候につき、地味折合が出来るまで間を要し候。従って四年を無得とし五年目より徳用米上納仰せ付け下され候願い奉り候」
 と、五年間の新田開き四十二町一反一畝二十七歩の年次計画をたてたが、実際は七十二町九反を開墾した。予定耕作地にたいし反当たり三斗の割合で見積もり、年間百二十六石ニ斗の徳用米を上納するとし、開墾地の悪条件と地味の悪さをるるのべて四年間据えおき、五年目からの徳用米による上納をねがった。
 これは白糸台地の田地をすべて新田扱いにしてもらったうえ、さらに通常新田は免税三年間であるところを四年間にひきのばしている。
 そのうえで保之助は、「安政三年までに上下井手を竣工するよう」にと白糸各村の庄屋に触れをまわしている。藩庁への届出では水路掘削の完了日は安政四年(1857年)十月となっているが、とっくに上下井手の工事はおわっており、嘉永七年(1854年)完成の通潤橋はすでに通水を開始しているので、田には稲穂が満ちていたのである。
 年貢徳用米上納は、水路掘削の公式完了日から五年目からである。開墾後の実高は、米八百石と麦の出来増で千百七十石にもなった。   
 さらには藩庁の慈悲深い御入目銭の御裁可を、恐れおおく言い出しがたいことではありまするがと辞を低くし大恐縮しながら、幾重にも懇願している。
 借り入れた入目銭三二七貫七三二匁九厘は、手永会所官銭として
 備蓄していた米で支払った。しかも通例藩への償還率は銭百匁につき米四升二合であるところを三升一合にまで減じてもらっている。 

 すべては保之助の擬態である。この擬態が、白糸七か村二百六戸の豊かな生活を約束したのである。
 くわえて「願い奉り候には今年の御普請、南手井手につかまつり相候へども、上矢部五里以上、猿渡・中島在里三里以上に及ぶ大造りの出夫につき」と、まだこの上告が裁可以前であるにもかかわらず、「今年からの御普請」と強調し、暗に今年中の裁可を催促したうえで、通潤橋建設工事のために矢部一円からおよそ三万人におよぶ出夫要請の許可をかさねてねがった。
 まさに保之助は、狂して藩を手玉にとったのである。




  通 潤 橋 その三

 嘉永五年二月吹上台目鑑橋建設の奉願覚が提出され、三月郡代横目野田半右衛門が実地検分におとずれ、藩庁からいくつかの疑問につき下問がなされた。とくに大石橋が高所に建造されるため、吹上石樋(いしび)や水の重さに耐えられるか、さらには地震にも耐えられるかと橋の安全性が指摘された。
 四月、保之助はそれにたいし次のように回答した。
  砥用目鑑橋見聞仕り、重重積立て、此の節吹上樋の重さ得、石水共に積み、差引候得供、三割程吹上樋軽く有之、且砥用橋は、拾五間六合にて輪石の厚さ有之。然るに今度の吹上台橋は拾二間にて輪石の厚さ三尺に積み申候に付、差引割にして三割程厚強・・・
 つまり砥用(ともち)の目鑑橋である霊台橋をしらべて、これよりも橋のスパンは短くしているから軽く、なおかつアーチをなす輪石は同じ厚みであるからさらに頑丈にできている。であるから地震で落ちることもないと、くりかえしじゅうぶん安全であると強調した。
 これよりのち、数度にわたり設計変更を申し出た。最後の申請では橋のスパンは十五間五合とほとんど霊台橋と同じ長さになっている。が、藩庁から裁可はおりなかった。
 その間保之助は、手品のように新しい漆喰の開発に成功した。
 八斗漆喰という。
 原料は、良質の粘土を乾燥させて粉砕し篩(ふるい)にかけたもの五合、漆喰をつくる五十日前に焼いた石灰二升、粗塩一合、よく洗った川砂を篩にかけた真の砂一升八合。これらに松葉汁をくわえながら臼でつき、ほどよい粘りが出たものをまるめて二日ほど寝かせ乾燥させたものをもみ砕いて粉にした。
 石管の接合面に二条の溝を変形井桁状に切りこみ、つき棒で根気よく時間をかけて漆喰をつめるのである。ほどよい硬さを保ち、乾燥してもひび割れしにくい性質をもち、収縮せずに水を通しても水に流れない理想的な漆喰であった。
 しかし保之助がどのようにしてこの八斗漆喰を開発したかはわからないままである。

 この十月までにいくたびか下問がなされ、保之助はそれぞれ明快に答弁したが、依然として藩庁からの裁可はおりなかった。保之助は、是が非でも今年中の許可をのぞんだ。どうあっても今年中でなければならなかった。来年になれば藩では橋どころではなくなるのである。保之助は心中おだやかではなく、焦燥の日々をおくっていた。
 そんなある日、郡代上妻半右衛門から使いがきた。御船郡代所までご足労ねがいたいとのことだった。保之助はすぐさま郡代所に出むいた。
 郡代上妻半右衛門を前にして、保之助は平伏した。
 「われらふたりだけの席では無用のことです」
 と、上妻半右衛門は保之助の手をとり、友人に笑いかけた。
 「お呼びだてしたのはほかでもない。上告の裁可がおくれていることです」
 と、上妻は顔から笑みをぬぐった。
 上妻は事情を説明した。藩庁では奉行真野源之助が吹上台目鑑橋建設を支持し、下役の者たちを説得につとめているが、どうしても水路橋である吹上台目鑑橋の安全性に不審をいだき、落橋のおそれがあるといって譲らない者が多いということであった。その者たちは石管をつらねた石樋三本とそのなかを満たす水の重さに目鑑橋が耐えられるかどうかおおいに疑問だと、異を唱えていると上妻はいった。
 「この際」
 と、上妻半右衛門は声をひそめた。
 「吹上樋は石管をやめて板樋にすると申されてはいかがかと」
 「板樋では水圧に耐えられませぬ」
 「いや、そのことは存じている。ただ表向きそう申しあげて、実際の工事は石管でおこなえばよろしいのです。そのうえで堅牢強固なめがねをつくればよいではありませぬか。板樋にすると申しあげれば御奉行真野源之助さまも藩庁のみなさま方も納得し、すみやかにご裁可くださるでしょう」
 「つねにかわらぬ上妻さまのご温情、御礼の申しあげようもございません。ご厚情にあまえ、おおせのようにいたしたいと存じます。この場をおかりして一筆したためたいと存じますが」
 そういって、保之助は上妻半右衛門に硯箱を借り、「再三願い奉る覚」を書きあげ、上妻半右衛門に託した。
 翌十一月、あれほどしぶっていた藩庁から上告の裁可がおりた。すべての願いが聞き入れられたのである。拍子ぬけしてうそではあるまいかと疑いたくなるほどであった。ありがたきことと保之助は、心のなかで真野源之助と上妻半右衛門に手を合わさずにはいられなかった。

 ところで話はかわるが、砥用(ともち)手永惣庄屋篠原(ささはら)善兵衛は、意図せずして保之助と白糸台地の人びとに手をかしたのである。
 保之助が轟渓谷に架ける水道橋の水源を笹原川にもとめたのは、篠原善兵衛が笹原川から矢部郷の畑村まで築きあげた水路が放棄されていたからである。
 篠原善兵衛には遠大な計画があった。砥用手永の東砥用には水源がなく貧弱な畑作を中心としており、そのことに篠原善兵衛はいたく頭をなやませていた。東砥用の水不足解消のため篠原善兵衛はふたたび知恵をしぼた。
 まず笹原川の水を轟川までひき、それを千滝川とあわせて東砥用まで運ぶ用水路を建設しようと企画し、実行にうつした。その用水路が放棄された水路である。
 水路が畑村まで完成したおり、益城(ましき)地方を大雨が襲い、各所で洪水がおこった。笹原川も氾濫し、猛り狂った川の水は苦心の用水路を破壊したのである。その大雨は矢部郷を襲ったばかりではなく、砥用郷にはいっそうの惨禍をおよぼし、田畑が土石流に堰きとめられ海原のようになった泥流の下に沈んでしまった。篠原善兵衛はその回復に全力をつくすため、遠大な計画を放棄せざるをえなかったのである。

 十一月二十日保之助は、郡代上妻半右衛門とともに砥用郷に霊台橋の視察にでかけた。保之助は、砥用惣庄屋篠原善兵衛に会って放棄された用水路を譲りうけるつもりであった。
 一泊して翌朝霊台橋をみた。
 灰色の空を牡丹雪が舞い、周囲の杉山と霊台橋を白くおおいつくし、つきることなく緑川にすいこまれては流されていった。
 雪の船津峡は、一幅の水墨画のなかにあった。雪に白い霊台橋はなおいっそうたおやかな曲線をえがき、あわく柔らかなすがたが墨色ににじむ緑川に架かっていた。
 「なんとみごとな・・・」
 上妻半右衛門は、はじめて見る霊台橋にことば少なに感嘆の声をあげた。このような大石橋の橋脚を堅固な鞘石垣で補強すれば吹上台橋が落ちる気遣いはあるまいと、上妻半右衛門は確信した。
 霊台橋をあとにしたふたりはそろって砥用手永会所に篠原善兵衛をたずねた。篠原善兵衛は保之助の計画を聞き、放棄された用水路を譲りわたすことを快諾した。
 篠原善兵衛から譲りうけた用水路は、のち通潤導水路と称される用水路の全長6kmのなかば過ぎまで開削されていた。保之助はこれを修復再生し、畑村から通潤橋の取水池まで延長した。途中岩山を掘りぬき、長い隧道を二か所つくらなければならなかった。
 
 保之助の初仕事がつつがなくおわったおよそ一月ほど前の嘉永五年(1852年)十一月二十二日(西暦)、マシュー・ペリー司令長官兼遣日大使は、バージニア州ノーフォーク港から蒸気を発した三本マストの蒸気外輪フリゲート艦ミシシッピの艦上にあり、勇躍はるかに極東の島国をのぞんでいた。
 このときすでに長崎では、ペリー艦隊の日本来航のうわさが風のようにひろがっていたのである。
 過ぐる六月五日長崎出島のオランダ商館長ヤン・クルティウスは、アメリカが日本との条約締結を求めて来夏には艦隊を派遣すると、長崎奉行を通じて幕府に報告していたのである。しかし幕府は、三浦半島の防備を強化するために川越藩と彦根藩の兵を増やす程度の対応をしただけで、事実上これを無視した。
 ペリーは単艦で喜望峰をまわり、シンガポールを経て香港にいたり帆走艦プリマス、補給艦サプライと、上海で蒸気フリゲート艦サスケハナと合流、サスケハナを旗艦として翌嘉永六年五月十七日出航し、琉球をめざした。
 
 保之助の通潤橋にもどる。
 十二月、いよいよ工事開始であった。
 目鑑橋建設、吹上石樋製作、通潤導水路工事、白糸台地の上下井手工事および新田開発工事などはほとんど同時に着工した。
 保之助は、前線本部となる指揮所を白糸台地の吹上池建設予定地のすぐそばに置いた。御小屋とよばれた。
 まわりに深山石楠花(みやましゃくなげ)を付近の山から移植した。志乃がこよなく愛した花である。保之助は、見るたびに志乃の面影とかさなるのであった。早暁保之助がひとり眠る客間に忍び入り、床の間に深山石楠花を飾った志乃。月光をあびて立ち、箱枕を胸にくすりと笑った志乃。保之助の胸で長崎に蘭医の修業に行くとささやいた志乃。すべては保之助の胸に秘めた甘くせつない想い出であった。

 保之助は、白糸台地の岩頭に立った。足もとから渓谷に高くするどくひびきあう石切り場の槌音がわきあがってきた。通潤橋の下流側をただちに二分して堰きとめた阿蘇熔結凝灰岩の川床から石をきり出しているのである。合間に石工棟梁宇一や副頭丈八が石工たちを指図する大声や、夫役(ぶやく)できている大勢の村人たちがきり出された石材を運ぶにぎやかな掛け声が耳にとどいた。
 石材はすべての現場で必要だった。およそ六千個の石材を必要とした。梅雨入り前の川の水が少ないうちにきり出してしまわなけれればならなかった。
 翌年三月根石のすえこみが終り、鞘石垣の積み方にかかった。熊本城天守閣の大石垣は、一見、乱積みのようではあるが、仔細に観察すれば大小ふぞろいの石がジグソーパズルのように巧みに咬みあい、できた間隙に小さく割られた石がはめこまれ、微塵のゆるぎもみせていない。穴太(あのう)石工にとって石の大きさや形をそろえ、段をそろえることはそれほど大事ではないようであった。
 石工棟梁宇一は弟丈八、甚平と語らい、鞘石垣の割石の大きさをそろえ、広げた扇をさかさに立てたかたちに十二尺(3・6m)まで積み上げ、そこに橋脚の根をすえたのち、その脚を包みつつ上部にのばすことにした。 
 アーチとなる輪石をはじめとした割石はじゅうぶん切り出していた。宇一は種山石工、地元矢部や緑川筋などの石工たち総勢四十名をつかい、鞘石垣を積みあげた。足もとをひろげておだやかな反りをもった武者返しが、途中十二尺までではあったができあがった。宇一は、はじめての鞘石垣のできばえに満足だった。
 手順としてつぎはアーチの輪石を積む下地橋を組みたてるべきだったが、保之助は、大雨による増水をおそれた。暦はすでに四月(旧暦)である。そろそろ梅雨がはじまろうとしていた。下地橋を組み輪石を積みあげたところを大雨に襲われれば、木造の仮橋はたちまち増水した川に浮きあがって橋が崩れ落ち、さらに落ちた輪石が川を堰きとめ、上流の田畑に洪水の被害をおよぼすおそれがあったからである。
 保之助は、しばらく様子をみることにした。

 その日のことを、保之助は終生わすれることはなかった。まさに天の配剤として記憶にとどめた。
 その日、朝から雲行きがあやしかった。青空をわずかに残しつつ足のはやい雲がめまぐるしく入れかわり、休むいとまもなかった。
 「雨になるかもしれんな」
 と、御小屋の縁側から空を見あげていた大工棟梁の茂助がつぶやいた。杣山(そまやま)からきり出した下地橋用材をすべておろしたおえた茂助は、それら松、杉、樫に寸方をとり、きり分け、番号をふり、あとは組みたてを待つばかりとなっていた。
 保之助が小者の太平が御小屋まで届けてくれた弁当箱をひらき箸をつかいはじめたころには、灰色の雲が朝方の飛鳥のような雲にとってかわり、やがて空一面灰色に塗りこめられ、しだいに薄墨色の雲が天空を支配しはじめ、浜町台地の杉林や竹林がざわざわと頭をふって暗雲に呼応した。
 やがて竹林は、まるで狂女が髪をふり乱すかのように頭をおおきく右に左にとふりたて、ごうごうと潮騒のごとく叫びはじめた。杉林も同様におめいた。もはや雨が落ちてこないのがふしぎなくらいであった。
 保之助は、仕事の中止を命じた。
 保之助が浜町の役宅に足を踏みいれたときであった。大粒の雨がばらばらっと大地に足跡を残したとおもうまもなく、天上の大河が堰をきったかのような雨がなだれ落ちてきた。それと同時に稲妻がきらめき、そのあとを追ってきた雷獣が阿蘇の天地をさかんばかりに咆哮した。すさまじい雨と風になった。
 夕餉をすませ広縁に立った保之助は、雨戸をあけた。たちまちなだれこんだ風雨に顔をたたかれ全身に雨をあびたが、保之助はかまわず風に荒れ狂う雨のかなたに目をこらした。すでに漆黒の闇に閉ざされた嵐が、電雷とともにあるのみであった。
 「旦那さま、はやく雨戸をおしめください。そのように濡れてはお風邪を召します」
 と、満が奥から走り出てきていった。
 「・・・・」
 保之助は無言のまま雨戸をしめた。なんとなく胸騒ぎがするのである。満が差しだした手拭で顔と頭をぬぐい、濡れた着物を着替えた。このような大雨であれば川はたちまち増水し、氾濫しかねない。増水の二文字が、保之助の頭にこびりついた。胸騒ぎが色濃く保之助をとらえて離さなくなった。
 「満、これから出かける。太平を呼んでくれ」
 といって、保之助は土間におり、壁にかかった蓑と笠を身につけた。
 「旦那さま、どちらへお出かけでございますか」
 と、蓑と笠をつけた太平がすぐさまやってきた。
 「鞘石垣が心配だ。龕灯(がんどう)に灯を入れてくれ」
 
 ふたりは吹きすさぶ風雨をついて、轟川の建設現場へ急いだ。太平が風に灯を消されぬよう龕灯を下にむけ、足もとをてらした。水かさを増し急流となった轟川は、堤の上まで一尺を余すばかりだった。行く手の闇のかなたに明りがゆらめくのがみえた。
 「おう、これは布田さま」
 と、嵐のなかで声をおおきくしたのは宇一だった。
 「ごくろうさまでございます」
 と、声をそろえたのは丈八と甚平のふたりだった。
 「鞘石垣は大丈夫ですか」
 と、保之助も風に負けじと大声を出した。
 「川の水が増し、流れもはやくなっておりますから、なんとも・・・」
 と、宇一が龕灯を水に洗われる対岸の鞘石垣にむけた。太平も光の輪を重ねた。   
 川が泡をかんで十二尺の鞘石垣に襲いかかり、執拗に石垣をはがそうと図っているかのようにみえた。
 轟川の水かさが増し、水が左岸に立つ五人の足もとを洗いはじめた。
 「危いから山へ」
 と、保之助がいったそのときだった。
 龕灯の光にてらし出された鞘石垣が、ゆらりとゆれ、ダルマ落としの最下段が打ちぬかれてストンと落ちるように、十二尺の鞘石垣がしぶきをあげて水中に没した。もしやと振りかえった保之助の目に、左岸の鞘石垣がぼろぼろとかたちを崩しながら川に沈んでいくすがたが映った。
 浜町台地の小高い場所に避難した五人は声もなくぼう然としていた。ときおり稲妻が白く切りさく闇の底に黒い奔流となった轟川がみえた。
 
 やにわに宇一がその場に膝をおり、篠つく雨のなかで両手をついた。
 「申しわけございませぬ、このようなことになってしまいまして・・・」
 と、宇一は保之助に涙声でわびた。
 「まことに面目次第もございません」
 と、丈八も大地に両手をついた。
 「どうかわれら兄弟をおゆるしください」
 一番年若い甚平が、保之助の足にとりすがった。
 保之助は、やさしく甚平の両肩を抱えあげながらいった。
 「ささ、ウーさんもジョーさんも手をあげて立ってください。失敗はだれにでもあります」
 保之助は腰をかがめて、うずくまり頭をたれたままの宇一と丈八の手をとった。
 「わたしはむしろいまこの時期、鞘石垣が流されてよかったとおもっております」
 保之助はあっけにとられた顔の三人を順ぐりにみながら、うそではないと一人ひとりにうなずいてみせた。
 「もしこのたびのことが、下地橋を組み輪石を積んでいる最中であるとか、あるいは吹上台橋が完成したのちにおこったのであれば、事態はずっと深刻なものになっていたでしょう。いまここで鞘石垣の欠陥がわかったことは、むしろよろこぶべきことではないでしょうか」
 と、保之助はいった。
 「たしかに考えてみれば、布田さまのおっしゃるとおりです」
 と、宇一がうなずいた。
 「失敗したことはおおいに恥じいり面目もございませぬが、布田さまにお心やさしくそういっていただけることが、ただただありがたく、感謝のことばもございません。このうえは、鞘石垣の崩れた原因をさぐり、二度とふたたびこのようなことがおこらぬよう盤石の石垣と堅牢なめがねをつくって、布田さまのご温情におこたえする所存でございます」
 と、宇一は深々と頭をたれた。
 「ありがとうございます」
 と丈八と甚平も、涙と雨で濡れた顔で保之助をあおぎみた。




  通 潤 橋 その四

 橋の根石とは、橋の橋台となる基礎部分に敷きこむ大きな石材のことである。現在であれば生コンクリートを打ちこんで橋台の基礎をつくるところであろう。この根石が小さかったため増水した川に流され、鞘石垣が崩れてしまったと宇一と丈八は判断した。
 それで広さ畳二畳ほどの大石を切りだして敷きならべた。これであればどんな大水が出ても押し流される気づいはあるまいとおもわれた。この基礎の上にあらためて十二尺まで鞘石垣を積んだ。

 しかし保之助は、工事はそこまでとした。今年中の目鑑橋の完成を断念したのである。
 下地橋の組みたては、梅雨や台風の大雨の時期を避け、二百二十日以降の秋からとした。再度の失敗はゆるされないのである。それに大雨で轟川がふたたび増水した場合、たしかに根石が水に流されずに耐えられるかどうかみてみたいという気持ちが保之助にはあった。
 通潤橋は永代不朽(えいたいふきゅう)でなければならないのである。そのためには橋脚を守る鞘石垣は盤石でなければならず、それにまたがる目鑑橋は堅牢強固にして微塵のゆるぎもあってはならなかった。

 架橋工事は中断されたが、残る現場は夫役(ぶやく)の村人たちが活気に満ちたうごきで作業をすすめていた。
 畑村から延長する通潤導水路にはあらたに隧道が二か所必要であることはすでにのべた。それぞれ250mと60mほどの長さである。いうまでもないが、すべて作業は槌と鑿だけで凝灰岩の岩山を掘り進めなければならなかった。
 その作業は「土砂一升に米一升」といわれた。日に四回一升飯を食わなければならないほど重労働であった。
 そのうえトンネル内での作業範囲がせばめられたのである。将来トンネル内に堆積した土砂をとりのぞくには非常な労力と困難が予想されるため、常時水圧でそれを排出する工夫がなされた。
 その工夫とは、厳密に千分の一の勾配で下る用水路の幅(2m前後)が隧道の入り口で急にせばめられているのである。これは断面をせまくし、水位を上げて強めた水圧で土砂をトンネルの外に押し流すのである。これは通潤導水路に限ったことではなく、すべての用水路の隧道工事でも同様であった。
  磁石をもって水路の方向をさだめ、それにしたがって高さ1・5m、幅が2mに満たないせまいトンネルのなかで辛抱強く岩をうがっていくのである。
 
 「伝兵衛、もっと離れんか。そげんひっつきよったらきつかろうが。仕事がでけん」
 中腰になってふたりならんで槌をふるう伝兵衛と九作が、せまい隧道のなかで作業がしやすい中央部をあらそって肩を押しあっていた。
 「なんば言いようとか。お前の方こそ離れんか。すぐ寄ってくる。仕事がやりにくうてたまらん」
 と伝兵衛が、肩で九作の肩をどんとついた。つかれた九作が、体勢をくずして右側の隧道の岩壁にたおれかかった。
 「こいつ、なんばしようとか」
 と顔を赤くした九作が、槌と鑿を放りだして伝兵衛につかみかかった。
 「こら、ふたりともやめんか」
 騒ぎを聞きつけた現場監督の藤助が、かけ込んできた。
 「いいかげんにせんか。さっきから喧嘩ばっかりして。少しも先に進んどらんじゃないか。こんどしたら、ふたりとも居残りばさせるからな。もう少し頑張れ。もうすぐ交代たい」
 腹のへった伝兵衛と九作は、気がたってほんのささいなことで角をつきあわせていた。       
 「この井手がでけたら、どんくらいみんなが助かるかわかっとろうが。仕事がやりにくいとはおたがいさまたい。譲りおうてやれ。わかったな」
 うなだれた伝兵衛と九作は素直にうなづくと、ふたたび槌をふりあげ鑿にたたきつけた。鑿をにぎった手にびりびりっと振動が伝わり、若者の空になった胃の腑にひどくこたえた。

 六月三日。
 琉球、小笠原を経て相州久里浜にいたり、導かれて江戸湾浦賀沖に投錨したペリー艦隊が、江戸の空に轟々と数十発の空砲を響かせて太平の夢を打ちくだいた。驚天動地の報せをいだいた早馬が、諸藩の江戸屋敷から国許へと各街道を休むいとまも惜しんで駈け下っていった。
 アジアにおける強権外交を旨とするペリーは、老中主座阿部正弘の命をうけた浦賀奉行戸田氏栄と井戸弘道の両名に開国をせまる米国大統領の国書をわたし、幕府に一年後の回答を約させてはやくも六月十二日には江戸湾を退いていった。そのため海路大坂にむかった肥後藩兵百八十余名は、大筒二門のうち一門だけをひき相州本牧をめざす五名をのこして、大坂からひきかえさなければならなかった。

 攘夷に凝りかたまる肥後藩兵は、一戦も交えずペリー艦隊をかえした幕府の不甲斐なさに憤慨し、豊後鶴崎へもどる船中やけ酒で不満を爆発させた。下船後もその不満はくすぶりつづけていた。二重峠を越え、小国(おぐに)の臼内切(うすねぎり)という寒村にさしかかったおり、おもわぬ惨劇が生じた。
 その村はひさしく近郷との関係をたった隠れキリシタンの村であった。肥後藩兵の鬱屈しねじ曲がった不満が、攘夷を隠れキリシタンの村で果たすことを要求したのである。
 およそ百八十名の藩兵が早朝の臼内切村を襲い、竹矢来をはりめぐらした丘の上で女子どもをふくむ全村民六十名ほどをことごとく惨殺してその丘に埋めたのである。

 このとき首切り役を命じられたのが、ただ一人小楠の実学党メンバーであった荻昌国だった。保守頑迷な学校党でかためられた肥後藩兵ではあったが、ペリー艦隊との戦闘では西洋事情にあかるい実学党の荻昌国が必要とされたのである。敵対する学校党の面々に囲まれてはいかな荻昌国でも命令を拒むことはできなかった。
 それから九年後の文久二年(1862年)一月、小国郡代であった荻昌国は郡代屋敷で喉を突き、多くの村人の首をはねた罪を償った。
 越前藩主松平春嶽の要請により春嶽の相談役として四度目の越前藩行きをひかえていた横井小楠は、この報せにぼう然自失の体であった。前年の暮、沼山津(ぬやまづ)の小楠宅・四時軒をおとずれ、久方ぶりに酒を酌みかわし、来るべき新しい日本のかたちについて語りあかした友のすがたが、涙のかなたににじんでみえた小楠だった。
  
 二百二十日がすぎた十月下旬、保之助は大工棟梁茂助に下地橋の組み立てを命じた。いよいよ通潤橋の架設工事の開始であった。
 茂助は、石工棟梁宇一、副頭丈八、副並甚平をまじえて綿密な打ち合わせをおこない、下地橋の設計図を作成していた。高さ約19mの四段構えのアーチ板枠仮設橋である。
 最上段のアーチ板枠を支える柱には、すべて木のくさびが噛まされていた。これはアーチ板枠の支保工として微調整をするためであった。くさびを打ち込めばアーチ板枠は突きあげられて輪石と輪石の間に隙間ができ、くさびを抜けば隙間が縮むという具合であった。
 アーチ中央の要石をはめこむ際や下地橋解体の際にもっとも重要な仕掛けであった。
 橋の真下の川床は阿蘇熔結凝灰岩である。ここに下地橋の最下段の柱を立てる穴をうがった。矢部郷の村人たちが大工棟梁茂助の指示にしたがい、穴をうがち、用材を運んだ。大工たちが柱を立て、梁をわたして一段ずつ組みあげていった。
 いよいよ四段の下地橋が轟渓谷にたかだかと立ちあがったとき、ゆるされて仕事の手を休めて見物にやってきた夫役の村人たちが手をたたいて喜びの声をあげた。

 「布田どの、いよいよ立ちましたな」
 喜び騒ぐひとびとに囲まれた保之助のかたわらでそういったのは、江藤烈太左衛門であった。
 元長谷村庄屋江藤烈太左衛門は、保之助の父市平次の命日に線香をたむけにおとずれることを欠かしたことがなかった。その江藤烈太左衛門は文武をおさめた人物であった。とくに剣術と砲術にすぐれ、数学にも精通していた。
 保之助が通潤橋架設計画を告げるとただちに協力を申し出、地勢の測量に手をかし、工事が開始されると工事現場を督してまわり、保之助をおおいに補佐した。
 「立ちました。しかしこれからが肝心です」
 と保之助は、下地橋の上で祝いの踊りをして村人たちの笑いを誘っている大工たちに目をやりながらいった。
 「左様。落ちぬめがねを架け、水を漏らさぬ吹上樋がみごと白糸台に水を吹きあげるまで気をぬくことはできませぬな」
 「上井手(うわいで)も下井手も隧道の掘りぬきが順調にすすんでおりますし、石材もじゅうぶん切りだしております。これからはめがねの完成に力をつくさねばなりません」
 「まことに左様」 
 と江藤烈太左衛門はうなずき、「もうこれからは野分の心配も無用でありましょうから」といった。

 保之助はみずから槌をとり、もっとも重要な下地橋に積む輪石と通水管となる石管をひとつひとつたたいて石材を選別した。永代不朽の橋をつくらねばならぬという使命感がそうさせたのである。およそ千二百個におよぶそれらの石を、保之助はうむことなく槌でたたいて調べた。
   蒸気船 たった四杯で 夜も眠れず
 黒船来航の話とともに伝え聞いた江戸の狂句が、槌をあげる保之助のからだのなかでくりかえし、くりかえしひびくのである。通潤橋建設の許可が下されたいま、保之助は安堵と戸惑いのはざまにいた。
 この時期、家老松井佐渡をいただく時習館を主軸とした保守派の学校党と横井小楠が主宰する革新派実学党ははげしく対立しつつも、肥後細川藩を佐幕攘夷の位置にすえたまま、軍学師範宮部鼎蔵率いる肥後勤王党ともども、長州藩などのように民衆のエネルギーを盛大にもりあげることもなく、ただ幕府の命じるままに右往左往するばかりだった。
 佐幕攘夷の肥後藩がこの煮えたぎる時代の流れのなかでどう動くのか、あるいは動かぬのか。そしてこの幕末の情勢が藩政にどのように反映され、保之助の支配する矢部手永にどのような影響があるのかと、保之助は考える。しかしいずれにせよ、通潤橋はできるだけはやく完成させなければならならぬと、保之助は結論づけた。

 夏の日蟻が長い列をつくって仕事にはげむように、杉を組んだ長い足場に石を運ぶ村人の列が切れ目なくつづいた。十二尺の高さからはじまる下地橋のアーチ板枠に沿って輪石を積むにつれ、石の段積みが高くなり、下地橋の上下流両面の四隅にもうけられた動滑車をつかって、石を運びあげなければならなくなった。
 喜三郎は矢部郷一の美声であった。村人は大勢で力仕事をするとき、いつも喜三郎の声にあわせて綱をひき大石をころがした。
 下地橋の中央に立って、喜三郎が谷間に自慢の喉をひびかせた。重たい輪石をつるし、喜三郎の声にあわせて「エンヤートセー、エンヤートセ―」と村人たちが綱をひいた。
   
   エンヤートセー エンヤートセー
   庄屋のふたさま わろうてござる
   ゆめのかけはし すわったからは
   黄金(こがね)の水が 谷わたる 
   ア―ア 谷わたる
   白糸台地に 稲穂がゆれて
   今年も豊年 万作じゃあ
   ア―ア 万作じゃあ
   エンヤートセー エンヤートセー
 
 喜三郎は、即興で歌をうたった。保之助の吹上台橋が完成し、白糸台地を縦横に井手がはしり、千枚田が青々とした広がりをみせ、秋には稔りの季節をむかえることができると、矢部郷すべての住民が確信しているのである。その気持ちを、喜三郎はそのまま素直にうたいあげたのだった。

 保之助は江藤烈太左衛門と御小屋を出て轟渓谷の岩頭に立った。
 目の下に大きな下地橋がみえる。その中央に喜三郎が立ち、上流にむかってあざやかに即興の歌をうたっていた。そのたかだかと響く声に和して綱をひく村人たちのうれしげで力強い掛け声が、保之助の頬をゆるめた。
 が、いつしか保之助は目頭を熱くし、涙をあふれさせていた。とめどなく涙がこぼれ落ちるのである。白糸の村々を救済するという保之助の生涯の事業が人びとに理解され、矢部の郷民がよろこんで手をかしてくれているのである。
 保之助は目頭をおさえて、いつまでも頭をたれていた。保之助の後ろにひかえた江藤烈太左衛門は、そんな保之助に保之助の父市平次のすがたを重ねあわせていた。

 下地橋の両端から積みあがった輪石が中央に要石をはさんでアーチの形が出来あがり、暦が十一月にかわろうとする矢先、雪が降った。寒気が例年になく厳しいのでこのぶんではこの冬は雪が多いのではないかと、村人たちは噂しあった。
 保之助は新田の開墾がすすむ白糸台地の小原の丘陵にのぼった。目をあげて遠く雪の九州山地をのぞんだ。ひと冬山なみに積もった大雪が春にとければ、川はどれほど雪どけ水をかかえて増水するかと案じられた。目鑑橋が完成しても三本の送水石管を載せてみるまでは、下地橋をはずすわけにはいかないのである。
 目鑑橋の最大の弱点は下からのつきあげにもろいことだった。川が増水し、下地橋が浮きあがってつきあげれば石橋はあっけなく崩れ落ち、すべては文字どおり水の泡となってしまうのである。春になり以後雨が降るたびに、保之助は心配でおちおち寝てもいられなくなるのである。
 なんとしても今年中にめがねを架けなければならなかった。

 保之助は、ふたたび狂した。
 隧道の掘り方だけを残し、残りの人数をすべてめがねの石積みにあてた。延べ二万人余であった。
 日を置かず大雪が降った。保之助が先頭に立ち、輪石を積み終えたあとの未完成な橋の雪を総勢でかいた。高さ20mをこす高所での雪と風との戦いだった。雪はかくそばから、たちまち積もっていった。埒があかぬとみた保之助は人数を雪のかき方と石の積み方の二手にわけ、雪かきが終わった個所からただちに石積みをはじめさせた。
 どんな大雪になろうとも、保之助は作業を中止しなかった。蓑笠をつけ、手足が凍えれば交代で御小屋の前に薪を高くつんだ焚火であたためながら、雪まみれになって作業をつづけた。
 
 吹雪が横なぐりになって、笠をかたむけた保之助にいどんできた。
 息もつかせぬ勢いである。先端に板を張った雪かきを動かす手を休め、保之助は顔に張りついた雪をはらった。
 「布田さま。今日の吹雪はいちだんとひどうございます。今日は中止なさってはいかがですか」
 かたわらで石積みの指揮をとっていた宇一が、大声でさけんだ。その大声さえ吹きすさぶ吹雪にかき消されそうだった。
 「一日休めば一日遅れます。一日遅れればそれだけ下地橋の解体が遅れます。遅れて落橋の憂き目をみるより、いま苦労したほうがいいのです」
 と保之助は、宇一に顔をよせて大声をぶつけた。
 宇一はあまりの声音の激しさに、保之助をみた。保之助の顔は、双眸をくわっと見開いた鬼面かと見まごうほどに変貌していた。保之助は、どんなに大雪が降ろうとも仕事を休むつもりはなかった。大水で増水し猛り狂う轟川と、その轟川に崩れ落ちる通潤橋の無残なすがたが、保之助の脳裡から消えることはなかったのである。もはや一刻の猶予もなかった。
 「わかりました」
 と答えた宇一にも、保之助の狂気がうつった。
 「村の衆の石を積む手を一時も休めさせるな。丈八、甚兵、死ね。死んで名を残せ」
 と叫んだ。
 これ以後宇一の懐には、
  この橋座り申さば
  腹切りしてお詫び申し候  宇一
 という書付が、つねにしのばせてあった。
 
 保之助は、一歩も退かず大雪にたちむかった。保之助の狂気をふくんだ冷たい空気が轟川の白い雪の谷間を満たし、その空気を体内深くとりこんだ村人たちも、猛然と雪をかき石を積んで雪とたたかった。輪石が積みあがったあとに間知石をならべ、壁石を積んだ。鞘石垣が橋脚をつつんだ。袖石垣もできあがった。
 やがて全長およそ76m、幅6・6mの目鑑橋が雪の降るなかですがたを整えた。目鑑橋の完成であった。浜町からも下地橋に支えられたその目鑑橋がよくみえた。毎日人が見物に群れ集い、はじめてみる巨大な石橋におどろきと称賛の声をあげ、さすが布田さまとほめそやした。
 しかし保之助には、感慨にふけっている暇はなかった。橋上の上下流の両側に転落防止のために石をならべた。そして石材置き場の雪に埋もれた六五九個の石管を掘りだした。その六五九個の石管をすべて一挙に橋の上に運びあげるつもりだった。四か所の動滑車をつかって石管をあげる者、縄につるした石管をかき棒を肩にして運ぶ者など、雪と寒気にはばまれながらも、すべて運びあげたのは大晦日の夜であった。
 
 明けて嘉永七年、正月ははやくも四日からすべての作業を開始した。
 石橋の上に敷設される三本の送水管の中央部には、川に放水するための放水孔がもうけられている。これは管内にたまる土砂をとり除くためであった。この放水孔をくりぬかれた石管三個をまず橋の中央にならべ、これに石管を左右につないでいった。つかう漆喰は保之助が考案した八斗漆喰である。石管の接合面に刻みこまれた変形井桁状の二条の溝の一方に、根気よく突き棒で漆喰を詰めこんでいくのである。他方の溝は修理した際につかうためであった。じつに根気のいる仕事だった。

 山出村の吉三は、村ではきっつあんと呼ばれていた。いわゆる知的障害の若者であった。しかし、いいつけられた仕事は手早くとはいかなかったが、なまけることなくこつこつとこなした。保之助は、日頃そんな吉三を村役の仕事にかりだしていた。日銭がもらえるので吉三はよろこんで仕事をした。
 保之助は、今回の漆喰詰めの仕事にも吉三をつかった。単純だが根気のいる仕事は、吉三にうってつけだった。寒風が吹きすさぶ高い橋の上で日がな一日座って突き棒をつかうことは、だれにとっても凍えてつらい仕事だったが、吉三は泣言もいわず、黙々と突き棒をうごかしつづけた。

 「きっつあん、仕事はどうかな」
 見まわりにきた保之助は、石管の溝に突き棒をさしこみ、さかんにつきうごかしている吉三の顔をのぞきこんだ。
 「ああ、庄屋さまか。ちゃんとやっとる」
 と吉三は、にっと無邪気に笑った。
 「もうすぐ漆喰詰めも終りだな。あとは試しに水を通して、水が吹きあがるかどうかみてみなくてはな」
 「ほんとうに水を通すのか」
 「そうだ。水が吹きあがるかどうかが一番大事なことなのだ」
 歳月をかけた保之助の事業の成否は、この一事にかかっているのである。万坂峠で叔父布田太郎右衛門からこの轟渓谷にわたす夢の架け橋を託されたときから、保之助の事業ははじまったといっていい。
  「寒くはないか」
 そういって保之助は、吉三の手を両手でつつんだ。
 「おう、こんなに凍えて。寒かったら監督にいって焚火にあたっていいんだぞ。さあ、はやく焚火にあたってきなさい」
 保之助は、吉三の凍えた両手をつかんで立ちあがらせた。吉三がほとんど漆喰詰めが終わった送水管の間を御小屋へむかって小走りにかけていくのを目で追いながら、通水試験が失敗することはあるまいと、保之助は心の裡でつぶやいていた。
 
 二月、通潤橋の背を駈けぬけた笹原川の水が、はじめて白糸台地に吹きあがった。




  エ ピ ロ ー グ

 事実は小説よりも奇なりという。
 はからずも平成になり白糸地区白糸の渡辺家から提供された「南手新井手記録」という古文書が、そのことを証明することになったのである。この場合、小説は、伝説と置きかえられるべきではあるが。
 渡辺家はかつて白糸台地の白糸、犬飼両村の庄屋を兼ねた渡辺太郎兵衛の子孫にあたられる。
 「南手新井手記録」は、布田保之助が企画・施行した通潤橋および白糸台地の新田開発工事に関する詳細な記録である。これによって安政元年(1854)七月二十九日の通潤橋落成式の聖なる伝説が壊れてしまったのである。
 
 伝説はつぎのように語る。
 安政元年七月二十九日、通潤橋落成式の日である。
 白装束に威儀を正した矢部惣庄屋布田保之助が、目鑑橋の中央に端座していた。目を閉じた保之助は、懐に刀を忍ばせている。
 石橋の架かる轟渓谷には、この日のために喜んで力をつくした大勢の村人が集まっていた。期待と不安の入り混じった多くの目が、橋上の布田保之助にそそがれていた。 
 保之助の背後から昇る朝日が、下地橋に支えられた通潤橋を影絵のように浮かびあがらせ、保之助の後光のようにみえた。 
 人びとの間からざわめきが湧きおこった。
 「布田さまはなぜ白装束であのような所に座っておられるのだ」
 「死ぬお覚悟ではないのか」
 「どうして」
 「もし下地橋を外して石橋が落ちたら、一緒に落ちて死ぬおつもりではないのか」
 「そんなばかな」
 「布田さまは責任をとるおつもりなのだ」
 
 下地橋をなす木の柱の先端がつぎつぎに、しかし慎重に切られていった。それを見守る石工棟梁宇一の懐には、「この橋座り申さば 腹切りして お詫び申し候」としたためられた文があった。最後に、橋の中央を支える柱の先端が切り落とされた。
 谷の空気を揺るがすズシンという目鑑橋の石が噛みあう重々しい音が、人びとの腹の底をゆさぶると同時に、白い土煙りが舞いあがった。一瞬のできごとであった。恐怖のため大きく見開かれた村人の目に映ったのは、橋上に端然と座る保之助のすがただった。
 通潤橋は崩れ落ちることなく、みごとに谷に架かったのである。人びとの喜びと称賛の声が谷間にひびきわたった。
 だが、それで終わりではなかった。笹原川の水を導いた井手の水を白糸台地にわたす重要な儀式があった。もし水が吹きあがらなければ、保之助は腹を切るつもりであった。
  保之助は端座したまま左岸にむかい、右手をあげた。
 井手の取水口の樋門が開かれた。橋の上にすえられた三本の石樋(いしび)を走りぬける水の響きが、保之助の体をゆすった。
 右岸の吹上口のあたりからどっと歓声があがった。白糸台地の村人たちの歓喜の雄たけびだった。傾斜した石の水路を駈けのぼった水が、朝日に飛沫をきらめかせて吹きあがったのである。艱難辛苦の努力が実をむすんだ瞬間だった。
 不毛の白糸台地が豊穣の地に変わることを約束されたおおいなるしるしだった。
 布田保之助もまた、人びとおなじく喜びの涙で頬を濡らしていた。
 白装束の保之助は、ゆったりとした足取りで吹上口に近づいた。そして腰をかがめ、その命の水を両手にすくっておしいただき、口にふくんだ。周りをとり囲んだ村人たちから、ふたたび歓声が湧きおこった。飲み水にさえ事欠いた白糸台地の村人の苦しみが、このときから過去の語り草になったのである。

 安政元年七月二十九日は、肥後藩庁の書類の上では通潤橋竣工の日とされている。
 だが現実の通潤橋は、川の増水で浮きあがった下地橋につきあげられて橋が崩落するのを恐れた保之助がはやばやと下地橋を解体させ、すでに完成していたのである。橋の上に設置された三本の送水路は、二月の通水試験の結果、水は吹きあげたものの漏水がはげしく、漆喰の強化と漏水個所の修理に全力をそそいでいた。
 この日、つまり七月二十九日は、とりあえず通水試験を終えた一本だけが披露されることになっていたのである。
 しかし当日は、轟渓谷は閑散として、事前にもれなく触れをまわしていたのに人影ひとつ見あたらなかった。
 お披露目の通水は、藩の工事関係役人と作業員の少数の者だけでおこなわれた。惣庄屋布田保之助、石工棟梁宇一、副頭丈八らのすがたもなかった。
 以後、数日おきに藩の重臣などが視察におとずれただけであった。
 八月晦日渡初めがおこなわれた。奉行真野源之助が先頭を歩き、郡代上妻半右衛門、惣庄屋布田保之助、横目石原夫兵衛、石坂禎之助などの関係役人と白糸地区の庄屋たちがあとにつづいた。
 そのあと祝宴になった。参列した多くの人びとにも酒がふるまわれた。喜三郎が歌をうたい、人びとが手をたたき、合いの手を入れ、お祭りのような宴であった。

 聖なる伝説は、戦前の文部省発行の尋常小学校(修身)読本や戦後の小学校国語教科書にもとりあげられ、多くの人の記憶に刻まれた。この伝説は、昭和十二年布田神社が白糸台地に造営されたように、布田保之助を尊崇する人びとが、こうであったに違いないと希求する気持ちが創作させたものであろう。
 事実は、上述のごとくまことにあっけないものであった。だが、その創作された伝説の真の心に、まちがいはなかったとおもわれる。布田保之助にしろ宇一にしろ、失敗すれば腹を切る覚悟であったに相違なく、また通水試験の際、石樋に多数の漏水個所があったにしても、白糸台地に届いた笹原川の水を保之助が両手でおしいただき、涙とともに飲みほしたであろうことは、想像に難くないのである。
 大切な竣工の日に布田保之助、宇一、丈八らのすがたがみえなかったことは大きな謎ではある。なにかあったに違いないと推測するのだが・・・   
 通潤橋はすでにのべたごとく、竣工の翌年安政二年、架橋した当時吹上台目鑑橋と称していたものに、奉行真野源之助が命名した。
 中国宋時代の儒学者程頤(ていい)の著書「周易程氏伝」のなかの一節「澤在山下其気上通潤及草木百物(沢山下にあり、その気上にかよい、潤いは草木百物におよぶ)」から二文字とったものである。
 真野源之助は、安政五年大奉行となり、その二年後六十八歳で亡くなった。
 
 かつて橋上に露出していた三本の石樋(いしび)がいまは土におおわれて、吹上池にむかってゆるやかな上り坂になった途中の左端におおきな杉がある。そのかたわらに通潤橋と刻まれた石碑が立っている。これは宮部鼎蔵が保之助に贈った墨跡を刻んだものである。
 その宮部鼎蔵である。
 宮部鼎蔵は清河八郎が来熊した翌年の文久二年(1862年)、保之助への友情のあかしに真野源之助が命名した橋の名を筆太くのびやかに書いて贈った。二日後、「いざ子ども 馬に鞍おけ九重の 御階(みはし)の桜散らぬその間に」と詠んで門人らとともに肥後を発ち、京をめざした。
 鼎蔵は京においてたちまち頭角をあらわし、尊攘派の一方の旗頭となった。帰藩して藩論を尊皇攘夷にくつがえし、再度の禁裏守衛の勅命によって肥後藩兵を率いる藩主慶順(よしくに)の弟長岡護美(もりよし)にしたがい、ふたたび上京した。
 文久三年鼎蔵は、総督三条実美(さねよし)のもとで諸藩から選抜された親兵三千人の総監となったが、幕府と薩摩の画策による八月十八日の政変で京を追われ、脱藩して三条実美ら七卿とともに長州へのがれた。

 長州滞在中、郷里の妻ゑ美にあてた書簡のなかで、
 「らくは手ならい針仕事肝要に存じ候。みつはさぞさぞふとり候と目さきにちらちらいたし候」
 と、幼いわが子をおもう父親の心情を吐露した。
 鼎蔵は、翌元治元年、脱藩して鼎蔵のあとを追ってきた弟大助をともない、尊攘派の勢力を挽回すべく長州からふたたび京へ潜入した。

 古高俊太郎は、京都河原町四条上ル東で古道具、馬具をあきなう諸藩御用達・枡屋をいとなんでいた。が、そのじつ尊皇攘夷派の長州間者の大元締であった。近江国栗太郡古高村の出身で、梅田雲浜のもとで学び、尊皇攘夷の志士となった。
 鼎蔵はこのたび京に入るとただちに旧知の古高俊太郎をたずね、しばらく枡屋に身をひそめた。

 六月五日、京都守護職配下の新選組が枡屋を急襲し、古高俊太郎を壬生の屯所に引立て、局長近藤勇、副長土方歳三みずから苛烈な拷問をかさねた。古高俊太郎は逆さづりにされ、足の甲から五寸釘を打ち抜かれ、それに百目蝋燭を立てられ火をつけられたりした。

 死半生の古高俊太郎が自白したと、のち新選組は公表した。
 京を追われた長州藩の志士たちが、六月下旬の風の強い日に御所に火をはなち、佐幕派公卿中川宮を幽閉し、京都守護職松平容保ら幕府要人を殺害して、孝明天皇を長州に連れさるというものだった。さらに、計画実行のためすでに多くの志士が市中に潜伏しており、近々会合がある予定であるとも漏らした、と。
 同夜新選組の探索が、古高俊太郎が捕えられたことをうけて計画実行か中止かを協議する会合がおこなわれているとの情報を得た、という。いわゆる池田屋事件と称するこの難をあやうく逃れた桂小五郎は、この夜の集まりはこの日急遽きまったことであり、それも古高俊太郎を救うための話し合いだったと、書き残している。
 しかし、古高俊太郎ははやばやと処刑されており、池田屋事件が冤罪かどうかは闇のなかである。

 新選組局長近藤勇は、応援をたのんだ会津藩や桑名藩などが時間になってもあらわれず、待っていては取り逃がすと新選組だけで行動を開始した。近藤は隊士を三隊に分け、手分けして旅館、料亭など片っ端からあらためていった。浪士たちの集会の場所までは把握していなかったのである。近藤はしだいに尻に火がついたような焦りを感じた。すでに夜も更け、散会するかもしれず、その前にどうしても見つけ出さなければならなかった。
 三条木屋町通りの旅館池田屋の大戸がしまり、くぐり戸に錠が下ろされていた。十時すぎである。店を閉めるには早すぎる、怪しいと近藤はにらんだ。近藤がくぐり戸を蹴破ってなかに飛びこんだ。抜刀してつづいたのは、沖田総司、永倉新八、藤堂平助である。残り六名は裏と表をかためた。
 
 藤堂が一階に残り、近藤が階段を駈けあがった。沖田と永倉がつづいた。乱闘となった。長州、土佐、肥後などの浪士たち二十数名は一時押し気味であったが、新選組の別働隊十二名が駈けつけ、二階は大混乱となった。
 そのなかで、鼎蔵は屋根を伝って逃げるよううながされたが、仲間をおいて逃げるつもりはなかった。かわりに弟の大助を二階の窓から逃がした。大助は屋根に身を伏せながら池田屋を遠くはなれて地上におり、河原町の長州藩邸に走りこんで助かった。残った鼎蔵は、もはや劣勢を挽回することはかなわぬと悟った。
 鼎蔵は、戟闘(げきとう)のなかでするどく声をあげ、
 「諸君、もう逃げきれぬ。生きてはずかしめをうけるより、ここでいさぎよく立ち腹を切りたまえ」
 と言い終わるや、鼎蔵はみずからの着物の前を開き、刀をもって腹に立て、真一文字にかっさばいた。
 ときに宮部鼎蔵四十五歳であった。
 
 翌元治元年(1864年)七月十九日、池田屋事件に激昂した尊王攘夷の過激派に押し出されるようにして上洛した長州軍は、蛤御門周辺で戦端をひらいた。禁門の変である。兵員千数百の長州軍は一橋慶喜が布陣した鉄壁の佐幕諸藩連合軍に粉砕され、京都南郊の山崎天王山にのがれた。その敗軍のなかに宮部大助がいた。二十六歳であった。
 天王山に登り、松の幹を背にして腹をくつろげたとき、大助は大空に兄鼎蔵が笑ってうなずくのをみた。

 横井小楠のその後についても語っておきたい。
 文久二年(1862年)十二月十九日夜、この年幕府の政事総裁職となった松平春嶽とともに翌年一月に上京することがきまっていた小楠は、京へのぼる前に話が聞きたいという肥後藩江戸留守居役吉田平之助にまねかれ、吉田の別宅二階で藩士都筑四郎らと盃を交わしていた。八時を過ぎたころだった。覆面をした三人の男が、抜刀して階段を駈けあがってきたのである。不覚にも座敷の主客ともども大小を携えていなかった。廊下側に座を占めていた小楠は、部屋に押入った賊と入れかわるようにするりと抜けだし、階段を駈けおり、そのまま常盤橋の越前藩邸まで駈けもどり、刀をつかんで加勢の藩士たちと引きかえしたが、賊はすでに逃げさったあとだった。

 素手で戦った都筑は軽傷、吉田は重傷(のち死亡)だった。応戦せずに逃げたとして小楠は、これまで小楠を嫌いぬいてきた肥後藩から「士道忘却」と断罪され、知行召し上げ・士籍剥奪・蟄居(ちっきょ)となり、以後沼山津(ぬやまづ)の四時軒に隠棲することになるのである。
 士道忘却事件の四カ月前の八月、坂本竜馬は「廃帝論」を唱えていた小楠を斬るつもりで越前藩江戸藩邸の小楠に面会をもとめた。しかし初対面の小楠の反論に感服し、断金の交わりをむすんで同志となった。
 小楠が四時軒に隠棲したのち、竜馬は勝海舟の使いをして三度四時軒をおとずれている。三度目の来訪は、慶応元年五月だった。長州問題で対立し、ふたりは決別した。片田舎に住む小楠には、時勢を読みとる情報が乏しかったのである。
 竜馬は、翌年薩長同盟を締結させることに成功するのである。
 
 慶応三年(1867年)十一月十五日、坂本竜馬が京都で暗殺された。
 小楠は、それから一か月後の十二月半ばになってその報にふれた。あの竜馬が死んだと、愕然とした。日本をおおきく旋転させ、新生日本の将来図を懐にしたまま竜馬はひとり逝ってしまったと、小楠は唇をかんだ。失ったものがいかにおおきかったかを思い知らされた。
 この年の大晦日、肥後藩庁は新政府から一通の通達を手にしてにがりきっていた。横井小楠を政府参与に登用するというのである。早急に上京あるべし、と。小楠を徹底して嫌い冷遇してきた肥後藩としては、中央政府で小楠が肥後藩にどんな仕返しをするかとおそれ、それを握りつぶした。
 しかし慶応四年三月になって議定岩倉具視から再度の厳しい命令に、肥後藩はあわてて小楠の士籍剥奪をとき、上京をゆるした。

 小楠は、はればれとした気持ちで出立した。前年病を得、寝たり起きたりであったが、ようやく回復し、病後の体をいたわっての旅立ちだった。熊本百貫石港を出帆した藩船凌雲丸の甲板に立ち、快い海風をはらんだ帆のはためきを背中に聞きながら、小楠の実学思想と明治新政府の政治理念とのすり合わせを模索する小楠は、齢六十になっていた。
 大阪に着いた小楠を出迎えたのは、大阪に行幸した天皇に随行していた越前藩士三岡八郎だった。三岡八郎(のちの由利公正)は、小楠が松平春嶽に招かれ越前藩で説いた「国是三論」の富国論にもとづき長崎貿易による殖産貿易を成功させ、領民を富ませ、藩財政を立てなおした。
 坂本竜馬は生前、政治改革試案のなかで参議として横井小楠と三岡八郎を推薦し、これを土佐の後藤象二郎に示していたのである。竜馬は、三岡八郎が越前藩の財政を立て直し経済を発展させたことを知っており、三岡を新政府の経済閣僚に想定していた。
 小楠は四月四日京にのぼったが、旅の疲れが出たものかふたたび体調をくずし、大政官に出仕したのは十二日だった。制度局判事を任命された。
 九月八日、明治と改元された。
 
 翌明治二年(1869年)一月五日、大政官に出仕した。烏帽子、直垂の正装である。小楠は京都に来て以来病臥することが多かったが、この日も病躯をおしての出仕だった。昨年八月に即位した明治天皇に拝謁した。初めて謁したときの印象を「英明な方でよかった」と安堵したように語っている。
 小楠は体調が優れぬため午後二時ごろ宮廷を下がった。駕籠で寺町御門から寺町通りに出、丸太町通りへとすすんだ。そこへ白昼夢のように凶刃が襲いかかったのである。小楠は、二尺の小刀を手にすばやく駕籠から出て駕籠を背にした。小楠に刺客が三人、大刀風するどく打ちこんできた。小楠は打ち返し打ち返しするうち、ついころんでしまった。そこがこの世とあの世の境目となった。刺客の一人が倒れた小楠の首を打ち落としたのである。そして首を小脇に逃走したが、供の者に追いつかれそうになり、首を放り出してすがたをくらました。

 首を取りもどされた遺体は、京都南禅寺天壽庵に埋葬された。享年六十一であった。
 「今般夷賊に同心し天主教を海内に蔓延せしめんとす」
 ゆえに天誅を加えたというトンチンカンな斬奸状(ざんかんじょう)が、犯人の一人の懐に残されていた。
 天才的な思想家は、理不尽にもあまりにも独断的な理由で生を断たれたのであった。

 物語の終りに、古代ローマ帝国の水道長官フロンティヌスのことばを紹介したい。
 
   見よ このすばらしいローマの水道橋を
   大きいだけで 何の生産もしないピラミッド
   有名なだけで 役立たずのギリシャの芸術品
   そんなものと
   このローマの水道橋の優劣を
   正気で比較するものが いるだろうか
  
 いると答えたら、フロンティヌスは目をむいて怒るだろうか。
 フロンティヌスに通潤橋とローマの水道橋をくらべてみてほしいものである。
 ローマの水道橋がすばらしいことに異論はない。しかし、その成りたちにおいて根本がちがうのである。
 ローマの水道橋は、ローマ元老院が企画し、他国を滅ぼして得た戦利品を処分した金を建設費とし、請け負った技術者が十一本の水道をローマまでひいたのである。  
 日本最大の石造アーチの水道橋である通潤橋は、住民のために、
 住民が浄財と労力を喜んで提供し、肥後の石工が持てる技術を最大限に発揮して布田保之助が考え抜いた企画を実現した愛の架け橋である。いいかえれば人民の、人民による、人民のための水道橋(政治)である。民主主義そのものといっていい。
 このような偉大な事業が、幕末の日本でおこなわれたのである。おどろくべきことといわなければならない。
 その下地が肥後国にはあったのである。それは五十四手永を差配した優秀な惣庄屋たちである。
 郷民の力をあわせて、山や岩をうがって井手を掘削し、新田をひらき、谷や川に目鑑橋を架け、石を積んで石堰を組み、洪水に備えて川の流れを変え、河川の築堤をし、川ざらえをし、干拓し、堤防を築き、波止場をつくり、およそ郷民のためになることは、私利私欲を捨ててなんでも率先しておこなったのである。
 このような自治による政治が、つまり小楠の「公共の道」が、江戸後期の肥後国でひろくおこなわれていたことを忘れてはならないだろう。
 
 明治六年(1873年)四月三日布田保之助永眠。七十二歳であった。  
参 考 資 料
 通潤橋架橋 150周年記念誌
 矢部町・通潤地区土地改良区編纂
 砥用町の石橋 太田静六(企画編集 砥用町役場総務課) 
 史実資料に基づく 種山石工列伝 編集者 上塚尚孝
 布田保之助惟暉翁伝 笹原侘介著 布田翁遺徳顕彰会発行
 新熊本市史 通史編第三巻 近世一、第四巻 近世二
       新熊本市史編纂委員会編集 熊本市発行
 「公」の思想家 横井小楠  堤克彦著 熊本出版文化会館発行
 新・熊本の歴史4、5、近世(上)、(下)
      「新・熊本の歴史」編集委員会編 熊本日日新聞社発行
 肥後細川藩幕末秘聞 河津武俊著 講談社刊
 やべごうの歴史を語る 井上清一(語る)
       やべごう郷土史伝承会編集 山都町教育委員会発行    
 ふぉん・しいほるとの娘 吉村昭著 新潮文庫刊
 霊台橋 一村一博著 熊日情報文化センター発行
 郷土史談 益城の華 編纂者 高野直之 上益城郡教育会発行
 通潤橋と真野源之助―一枚の古文書にみるロマン(論文) 
          真野豊雄・真野道雄・真野孝子 
 肥後の石工 今西裕行著 実業之日本社刊
 日本のいしばし 日本の石橋を守る会 会報79号
 二宮金次郎はなぜ薪を背負っているか?
       猪瀬直樹著 文芸春秋(文春文庫)刊
 二宮尊徳 守田志郎著 (社)農山漁村文化協会刊
 森の歴史 山本宏著 森北出版刊
 達成の人―二宮金次郎早春録 植松三十里著 中央公論社刊
 通潤用水ウォーキング やべごう郷土史伝承会発行
           (平成23年5月14日号)
 世に棲む日日 司馬遼太郎著 文芸春秋社刊
 横井小楠 山下卓著 熊本日日新聞社刊
 眼鏡橋―日本と西洋の古橋― 太田静六著 理工図書刊
 古代のローマ橋 フロンティヌスの「水道書」とその世界
        今井宏著訳 原書房刊
 上益城郡誌 編者 上益城郡長 名著出版社刊
 インターネット ウィキぺディア
          熊本国府高等学校パソコン同好会
          その他のウエブサイト
 

発信:2012/07/30(最終更新:2012/08/01)


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