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概要

20150218-0005-001

竹部光春氏の石工人生 33ナテコ(鉄梃)の両側につるし、それを天てんびんぼう秤棒のように肩に担いで運んだ。 師匠の坂中眞氏について、竹部さんは次のように語る。 「師匠は無口で、余分なことは一切しゃべらん人だった。仕事に集中しているときは特にそうだった。弟子が間違ったときだけ、こうせにゃいかんて言わしたもんたい。弟子入りしたばかりのころは、道具は何種類もあるし、その名前もカナテコ(鉄梃)の使い方も分からんけん、兄弟子に教えてもらった」 「仕事の仕方を言葉で教えてもらったことはないな。自分で見て覚えた。現場で師匠から、道具を持って来いと言われたとき、担いで持っていくが、そのときチラッと師匠の仕事の仕方を見る。これこれの大きさの石を持って来いと言われたら、指示された石材を運んで行って、師匠が石を削はつって積むところに居って、ハンマーを持った師匠が石のどこから先に叩たたくか、見ておった」 「師匠は石材を削るとき、何度も向きを変えん。変えてもせいぜい2度ぐらい。石材は一度積んで胴が張っとると、隣に置いた石材に当たるところば、削らないかんごとなる。そこば削って積むと、今度は他の部分が隣の石材に当たるけん、何度も積んで、何度も削らなんごつなる。師匠は作業に無駄がなかった。だけん、力も使わんし仕事も早かった。落ち着いて、しっかり石ば見て、仕事をせんといかんということたいな」*1 「種山石工の師弟関係図」は、「岩永三五郎・橋本勘五郎 縁故者の会」が1991(平成3)年に作成した家系図(上塚尚孝氏提供)を参考にした。種山石工は、現在の熊本県八代市東陽町を拠点に石造アーチ橋築造などの工事で名を挙げた石工集団。野津石工は、現在の八代市鏡町や八代郡氷川町辺りを拠点にした石工集団。岩永三五郎は野津石工の宇七の子で、実子はなく、おい(兄・宇吉の子)で弟子の大蔵を養子に迎えている。林七(種山石工祖)の孫である宇助(卯助)と宇市(卯市)は、大蔵とともに岩永三五郎の墓に弟子として名を連ねている。