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概要

20150218-0005-001

42 第2 章 匠の技改変工事が行われている。1921(大正10)年には壁石の要所にコンクリート架台を設け水道管を添架。1928(昭和3)年には路面の石畳に道路舗装が施され、太平洋戦争中の1944(昭和19)年の金属供出により高欄の青銅製の擬ぎぼし宝珠が陶器製に置き換えられ、戦後の1953(昭和28)年にそのうちの8個が鉄製になっている。こうした西田橋の変遷を確認し、ほぞが折れた小柱は、築造後に石の目が横目の小柱に取り替えられていたことが判明した。 「何で小柱のほぞが折れたか、竹部が付いていてどうしたことかと最初、大変な問題になったが、石の目が分からん岩永三五郎さんじゃなかったはずていうて、築造後に取り替えられたとだろうということに落ち着いた。石の目ばちゃんと見て石材を使うことは、石工としては当たり前のことで、長持ちする橋ば造るために大事かことたい」責任の重さと大きな誇り 鹿児島藩から招かれ、石工棟梁として地元の石工を指揮した岩永三五郎について、竹部さんは次のように語る。 「西田橋の石材を一つ一つ解体していくと、よく人間の力でここまでのもんができたもんばいて思うな。岩永三五郎さんは天才ていうかな、計り知れん人たい。西田橋に使われている石材は熊本の霊台橋に使うてある阿蘇溶結凝灰岩とは違うて軟らかいが、石の表面を丁寧に美しく仕上げてある。あれほどに仕上げるには絶妙の手加減がいる。そして橋の工夫も違う。橋の架かる場所の川底に、はしご胴どうぎ木ば使うことなど、普通なら考えつかん。石工の技術レベルからすると、人間のした仕事じゃなかごと思わるる。いまだけん言うが、こがん橋ば解体すると罰ばちが当たるばいて思た。それが正直な気持ちだった。解体工事に掛かろうとするときは、西田橋の解体に反対する人たちが大勢おったけん、最初は身の危険ば感じたもんたい。解体が始まってからも、工事の様子ば見物できるごと、見物台が設けてあって、いつもそこで誰かが工事の進み具合ば見よらした」 西田橋・高麗橋・玉江橋の解体・復元には、鹿児島市民の中から猛烈な反対運動が起こり、移設の是非を住民投票にかける条例制定案が議会に提出された。この条例案は否決されたが、解体工事は根強い反対運動の中で着工されたという経緯があった。 「解体していくうちに、西田橋の丁寧な仕上げ方や巧みな構造が分かるごとなって、ワクワクするていうかな、武者震いのような感じていうか、とにかく大きな仕事を請け負ったという責任の重さと誇りを感じたな。職人の喜びというもんはな、そういう仕事をやり遂げるところにあるて思う。工事が終わったときは、われながら、ようやったと思った。しかし、それも工事に関係した全員のおかげたい」 1996年2月から1999年9月まで、3年7カ月を要した西田橋の移設復元工事はついに竣工した。工事主石橋記念公園の岩永三五郎像