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概要

20150218-0005-001

52 第3 章 日本の石橋の現状*5 唐寺は、江戸時代の長崎に創建された黄檗宗(禅宗の一分派)の寺院。長崎在留中国人や中国からの貿易船の乗組員が中国式の宗教儀礼を行った。それぞれの檀家(だんか)の出身地ごとに興福寺、福済寺、崇福寺がある。*6 「熊本藩の地域社会と行政─近代社会形成の起点─」(吉村豊雄・三澤純・稲葉継陽編、思文閣出版、2009年発行)の「第四章 日本近世における評価・褒章システムと社会諸階層 ─ 一九世紀熊本藩住民評価褒章記録『町在』の成立・編成と特質─」吉村豊雄編、ならびに、2013年4月23日日本経済新聞掲載「肥後のめがね橋 礎は庶民」(上塚尚孝)を参考にした。熊本藩は藩内を「郡」より小さく「村」より大きな地域単位「手永(てなが)」に分けられ、手永には地域行政を行う会所(かいしょ)が置かれ、各手永を行政長官である「惣庄屋(そうじょうや)」が統治していた。1752(宝暦2)年の藩政改革以降、惣庄屋の世襲が改められ、1803(享和3)年以降、年貢賦課方式は、その年の米生産高に関係なく手永が定額的な年貢を請け負う「請免制(うけめんせい)」が導入された。年貢率が固定化したことで、生産高の余分は手永の共有財産として留保され、不作に備えた。その一方で、この財産を「会所官銭」として運用し、地元の水利・土木事業や地域住民への貸し付けなども行われ、官銭の利殖が行われた。幕末の熊本藩では資産を形成する住民が増え、地元の有徳者・富裕層からの寸志(寄付)が活発化した。藩はこれに対し住民からの寸志などを記録し、名字・帯刀だけでなく、多様な身分標識を用いた評価・褒章制度を活用して民間活力を引き出した。れ、長崎在留中国人たちが寄付を行い、競うように次々と石造アーチ橋が築造された。 現在は、川の氾はんらん濫による流失や道路整備のための架け替えにより、数橋を残すのみであるが、長崎の眼鏡橋は全国に知られるようになり、その名称が全国の石造アーチ橋で使われるようになった。地方自治の成功例としての石橋 長崎に伝わった石造アーチ橋は九州各地に伝搬。19世紀の肥後・熊本藩では年貢収納制度の改革後から地方自治体制が機能するようになり、地域の資金で多くの石造アーチ橋はじめ、住民生活の必要性に応じたさまざまな土木工事が行われるようになる。そして、霊台橋(熊本県下益城郡美里町、1847年架橋、橋長89.9㍍、径間28.4㍍、国指定重要文化財)、通潤橋(同県上益城郡山都町、1854年架橋、橋長75.6㍍、径間27.5㍍、国指定重要文化財)など、巨大な石橋を築造できるほどに技術が発展する。*6 肥後の野津石工、岩永三五郎は、まさにその時代に活躍した名工で、鹿児島藩領で「甲突川五石橋」はじめ、数々の橋梁や土木工事を指揮。熊本藩領では幕末以降、種山石工の活躍が始まった。眼鏡橋(長崎眼鏡橋)長崎市、1634(寛永11)年架橋、2連アーチ、橋長23.0㍍、橋幅4.7㍍、国指定重要文化財。下流に見える単一アーチ橋は袋橋(袋町橋)通潤橋熊本県上益城郡山都町、1857年架橋、単一アーチ水路橋、橋長75.6㍍、橋幅6.3㍍、径間27.5㍍、水面からの高さ20.2㍍、国指定重要文化財