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概要

20150218-0005-001

歴史を物語るアーチ 53首都建設に石橋を採用 幕藩体制が終わった後、明治新政府は首都東京で石造アーチ橋の築造を推進する。人口が密集していた徳川幕府の都「江戸」は何度も大規模な火災に遭い、江戸城本丸まで焼失*7したほどであったため、政府は火災に強い首都建設を目指した。 石橋築造のため九州から石工が東京に招かれ、熊本からは種山石工の橋本勘五郎が1873(明治6)年に神田筋違橋(萬世橋)、翌年には浅草橋を架け、文明開化期の首都を特徴づけた。 文明開化期から石材とともにレンガを使用した建造物も多くなるが、このころに築造された石橋は、早くも大正期ごろまでに鋼橋などに架け替え*8が行われ、現存するものは少なくなっている。架橋技術の発展と全国への伝搬 石造アーチ橋は、現存・復元を合わせ約9割が九州・沖縄に集中していることはすでに紹介したが、山形県、福島県、栃木県では、周辺の地域に比べると石造アーチ橋が数多く築造されている。この3県には薩摩出身の内務官僚、三みしま みちつね島通庸*9が明治政府の県令*10として赴任した場所であるという共通点がある。三島は土木関連の整備事業を強力に押し進め、石造アーチ橋築造のほか、道路敷設やトンネル工事、病院・学校建設などを行っている。*11その他の地域では、新潟県佐渡市、石川県小松市、千葉県、静岡県、京都市や京都府宮津市などで石造アーチ橋が比較的多く見られる。 石造アーチ橋は明治後期から大正期にかけ、鹿児島や大分で数多く架けられるようになる。新しい土木技術を取り入れながら架橋工法が発展*12。石材のサイズを規格化し、石材と石材の接合面にモルタルなどを使用して連結する錬ねりづみ積工法*13が採用され、河床に高い橋脚を立てその上部を輪石で連結した多連アーチ橋が多く築造されている。*14常磐橋東京都千代田区、1877(明治10)年架橋、2連アーチ。千代田区景観まちづくり重要物件として現存。写真は1963年の姿で奥の建物は日本銀行本店(撮影・福津もも)*7 1657年には当時の江戸の大半が焼失したとされる。この火災は「明暦の大火」や「振袖火事」と呼ばれる。*8 1873(明治6)年築造の石造2連アーチ橋の神田筋違橋(萬世橋)は、1906(明治39)年に取り壊され、1874(明治7)年に築造された石造単一アーチ橋の浅草橋は、早くも1882(明治15)年に鋼橋への架け替えが行われた。株式会社文化財保存計画協会の西村祐人氏の「常磐橋」修理に伴う調査資料(2014年)を参考にした。*9 三島通庸(1835-1888年)は、薩摩出身の内務官僚で、山形県、福島県、栃木県の県令、警視総監を歴任。*10 県令は廃藩置県後の県の行政長官。その後「知事」に改められた。*11 三島通庸については、山形県のホームページ「山形県の近代化産業遺産群 三島通庸が残した土木遺産」を参考にした。*12 元・大分の石橋を研究する会会長の岡崎文雄氏の調査では、大分県は明治20?30年代に東京帝国大学を卒業した3人の技師を順次招き、土木工事の技術指導に当たらせたという。