沖縄におけるアーチ石橋とアーチ技法の発祥についての考察(工事中!)PDF
島崎 敏之
沖縄において、石造アーチの技術はいったいどこから来たのであろうか?・・・
日本本土において石造アーチ橋の出現は長崎眼鏡橋が最初とされ、その技術は当時の長崎の状況、石積みから西洋由来とされるが、実際は中国人技術者による架橋とされている!!
(長崎眼鏡橋・・・1634年架橋)
沖縄においての石造アーチ橋は、長崎眼鏡橋架橋よりも約200年も遡って出現している!!
1451年、当時浮島だった那覇に、冊封史を迎えるためにアーチ7座を含む海中道路「長矼堤」の創建が最初となっている!!(王朝時代末頃に土砂堆積のため大部分を埋め立て、現在は存在しない!!)
(末吉宮磴道橋・・・長矼堤架橋の5年後の1456年創建)
石橋の技術がどこから伝わったかは、確かな記録が残っていないので分らないが中国由来との説が強い!!
それは最初の「長矼堤」架橋には王国の重要ポストの一つ国相「懐機」が指揮を執り建造したが、懐機は元々中国出身であり、また石橋架橋年より100年位前から中国人集団(久米三十六姓)が沖縄に移り住んでいたため
帰化中国人技術者が参加した可能性は高いと思われるからだ!!・・・でなければいきなり7座のアーチ石橋を架橋出来たであろうか?・・・
ただ、沖縄においての石造技術は石橋架橋よりも古い時代から伝承されていた事は確かである!!
それはどういう事かと云えば、使用石材に答えを求めることが出来るかもしれない!!
沖縄において主に産出される石材は琉球石灰岩である!!(沖縄本島では中南部に限るが・・・)
この琉球石灰岩は先史時代(沖縄では貝塚時代と呼んでいるが本土では縄文~古墳時代)の頃から生活の中に存在していたからだ!!
その頃は建造物に石材を使うというよりも、湧水確保のためや原始的漁をする場合の囲い込みのために石を積んだりしていたようだ!!
これは島の成り立ちも関係していて、造礁サンゴが隆起してできた島であり陸の周りを珊瑚礁で囲まれていることが原因になっている!!
つまり地層は一番上に琉球石灰岩層が覆っていて、これは雨水をよく通す透水層である!!
その下には雨水を通さない不透水層の泥岩層(沖縄本島では島尻層と呼んでいる)が堆積していて、このため雨水は層の境界部分で横に流れて行き、琉球石灰岩層の切れ目や薄い所で水が染み出てくる!!
だからそういう場所に樋泉を設けたり井戸を掘ったりして集落が出来、後の時代には畑作なども行った!!
↑森の川 ↓育徳泉 どちらも18世紀頃の建造なので凝った造りになっているが、
そして集落を守るために石垣を築き始め、祭祀をする場所にも石で囲うようになり、次のグスク時代へと移り変わっていったのだ!!
だから石積みの技術においてはかなり古い時代から確立されていたわけである!!
グスク時代と呼ばれた11~15世紀には鉄器も輸入されるようになり農具も発展し作物量が多く採れるようになると権力というものが発生!!各地に「按司」と呼ばれる首領たちが台頭、それぞれが覇権を狙い争いが活発になっていき、集落や祭祀のための石垣から防御のための石垣(グスク)へと変化していった!!(三山時代)
鉄器の導入は農具だけでなく、石を加工する工具の発展にも結び付き、飛躍的に石積みの技術を向上させ、野面積みから布積みへ、そして沖縄独特のあいかた(亀甲)積へと発展させてきた!!
↑野面積み(糸数城) ↑布積み(座喜味城)
↑あいかた積み(中城城) ↑あいかた積み(中村家住宅)
ところでアーチ石橋の建造に関しては中国の技術の存在が濃厚なのは確かであるが、アーチ技法そのものに関して言えば少し事情が違ってくる!!
・・・なぜか!!・・・
沖縄における最初の石造アーチの出現は、石橋が架けられる30年ほど前の1422年頃、座喜味城の城門に採用されたアーチが初見だからである!!(城壁の曲面構造は城建造当時から存在する!!・・・平面アーチ構造)
座喜味城
三山時代後期、読谷の山田城に居城し、周りを支配していた「護佐丸」という武将が、時の中山王「尚巴志」の依頼で北山や当時力をつけていた勝連按司を牽制する目的で「座喜味城」を築いた!!
そこに突然アーチ門が出現したのだ!!
文献によると、護佐丸は武将であるとともに築城の名手でもあったらしい!!
ただ、それとアーチの出現の説明には不完全である!!・・・もしかしてこのアーチ門の出現で築城の名手とされたのかもしれないが・・・
もちろんアーチ門だけでなく相方積みもこの城から目立つようになる!!
ただ「座喜味城」に関しては石材を、それまで居城していた山田グスクからも運び入れているので野面積みも布積みも散見されているが・・・
護佐丸は統一王朝が出来た後、その功績によって中城城監守となり1440年、「中城城」に移り城壁を増築しているが、そこでのアーチ門や相方積みが石積みの技術力の高さを象徴するものとして今日に伝わっている!!
中城城
ただ、護佐丸の記録は以外にも少なく、何故アーチを採用したのかなど不明な点が多いので、アーチの起源に迫るには他の要素で想像するより仕方がないようだ!!
沖縄におけるアーチ技法は、独自開発のものであるという考えの研究者もいる!!
その根拠となっているのが、まずアーチを構成する石材の数が2枚と最低限であるという事と、アーチの形状が半楕円アーチを採用しているという事である!!
座喜味城築城当時の交易国は幅広いものがあったが、それらの地域にあるアーチ形状とのつながりが全く認められないということをこの研究者は述べている!!
当時一番交流があった明国の窓口になっていた福建省あたりの石橋やアーチ門は半楕円のものは無くほとんどが半円アーチ、もしくは欠円アーチである事を根拠としている!!
それはともかく何故アーチを採用したのか?・・・城壁の曲面構造は地形に逆らわないという知恵があったが・・・それは日本本土よりも原始的な生活、貝塚時代が長かった時の記憶、貝殻の形状に着目したのでは・・・と思われる!!貝殻は伏せて使えばかなり重いものを載せても割れにくいことから、アーチ形状が丈夫であることが直感的にわかっていたと思われる!!・・・その状況証拠が昔のお墓に見て取ることが出来る!!
写真は記録上、実在した最古の王とされる英祖王の父の他、二人の按司が納骨されている「伊祖の高御墓」だが
崖葬墓という古い形式の墓で12世紀頃のものと思われる!!
入り口上部の石は一枚岩であるが中央部が緩やかにアーチ状になっているのがわかる!!
もちろん当時の技術では真っ直ぐな直線に加工することの方が難しかったからかもしれないが、この形状が丈夫であるという事がわかっていたことの証左であるとも思う!!
ところでこの研究者は、他の研究者が座喜味城のアーチ形状を三心円としていることも否定している!!
実際に解体修理された座喜味城のアーチ門の解体前の測量や写真撮影により、三心円とは一致せず、半楕円軌道と一致していることを図面で証明している!!
おまけに当時の技術で三心円を描くよりも楕円軌道を描く方が簡単であることも述べている!!
どういうことか?・・・
三心円とは半径の異なる中心部が三カ所となり、特に中央部の円の半径が長くなることで現場では描くことが困難だと思われるからだ!!
では半楕円はどうやれば良いのか?・・・
例えば城門の幅に2本の杭を打ち、その長さより少し長いロープを張り、そのロープを棒で張りながらその軌跡を描いたものが半楕円となる!!・・・つまり三心円を描くよりもずっと簡単なのである!!
ではどうしてもっと簡単な半円にしなかったのか?・・・
確かに半円であればもっと簡単で1本の杭にロープを縛りその先に棒をつけて円を描けば真円、つまりその半分の半円が描けるのだ!!
多分その理由は石材にあったと思われる!!琉球石灰岩は割と柔らかく、だから加工しやすいのだが、その分丈夫ではないので結果的に長さを必要とする真円ではなく楕円を選んだのではないか?・・・
・・・もっとも三心円だとしても楕円軌道だとしてもその技術はどこから?・・・という疑問は残るが・・・
以上の事から座喜味城を築城した護佐丸は半楕円アーチ形状を選択したのではないかと推測される!!
つまり、中国経由の技術ではなく、独自発想の技術ではないか?・・・と、この研究者は推察している!!
ところで余談だが、座喜味城近くに存在する、あるいはかつて存在した石橋にアーチの変遷ともとらえることの出来る橋がある!!
まず現在は撤去されてまったく別の橋が架かっているが、二枚の石を並行に架けた「寺川矼」という桁橋があった!!記録写真を見ると、厚みのある石材を直線状に切り出して架けてあった!!
そして、かつて護佐丸が居城とした山田グスクのすぐ近くには「山田谷川矼」という山形アーチの石橋が修復され現存している!!パッと見にはわからない程の僅かに湾曲した2枚の石材を使って架けられている!!
山田谷川矼
どちらも架橋された年代は不明で、どちらもかつての主要道に架かっている橋であり、座喜味城に近いことからアーチ起源のカギを握っているのでは?という思いを持っている!!・・・もし、この石橋を護佐丸が架けたものだと仮定したら、それこそアーチの発展を辿っている事になるのだけれど・・・
さて、前述の通り最初に架けられた石橋、「長矼堤」は中国の技術が導入された可能性が高い!!
指揮を執った政治家も中国出身であり、技術者も帰化中国人が存在したとすれば可能性は高いのは当たり前だと思うが、実際はどうであっただろうか?・・・
石積みの技術に関してはすでにあいかた積みという高度な石積みを可能としていたし、城門にアーチ形状も採用済みであった!!
それに長矼堤という石橋は橋というよりも潮の満ち引きをスムーズにするための水門としての役割であったらしい!!・・・ということは、すでにアーチ門という技術を持っていたので、特に中国の技術に頼る必要はなかったとする説もある!!
ただ、護佐丸が技術者として、あるいは技術指導者として長矼堤架橋に携わったという記録は無い!!
さらに後の時代(17~18世紀頃)、わざわざ中国まで石橋の技術を学びに研修に行っているので、この長矼堤がどちらの技術で架けられたのかはわからない!!
・・・もっとも中国への研修は最初の頃架けた石橋が大雨による決壊が続いたため、その対策としての研修だったと思われる!!・・・
とにかく当時の資料と云ったら想像で描いたとされる葛飾北斎の絵画か、琉球王朝時代に書かれたとされる那覇港あたりの絵図位しかないので・・・
それはともかく、長矼堤以後の石橋は城門の技術プラス中国の技術が合わさったものであるいう事は明らかだと思われる!!
アーチ形状に関しては半楕円アーチと半円アーチの2種類があり、その使い分けの理由はわかっていない!!
長矼堤がどちらのアーチであったのかもわかっていないが、半楕円アーチの由来は城門であることは確かだと思われる!!
↑龍淵橋(半楕円アーチ) ↑天女橋(半円アーチ)
沖縄の石橋の特徴としては、中国由来の駝背形式を持つ石橋が多く中国の影響を強く窺わせるが、アーチ技法については半楕円アーチの存在から独自技術(アーチ門)とする事も出来る!!
結論としては、沖縄に於ける石造アーチの発祥についての定説は未だに定まっていない!!
アーチ石橋に関しては中国由来である可能性は高いが、石造技術全般に関しては沖縄に古くからあった技術を受け継がれて来たものだという事が出来る!!
石橋を未来へ!!
せっかくの素晴らしい石造技術を持っている沖縄!!やはりこの技術は次の世代へ、未来へと受け継がなくてはならないと思う!!
そういう意味では2002年、宮古島に架けられた「島尻入江橋」は大変意義のあるものだと思う!!
昔からの技術で、地元で取れた石材を使って架けてある!!車両は通れないが遊歩道に架かる石橋は光り輝いていると思う!!