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飯能市の石橋供養塔
記録する目的
1-1 何故その文化財なのか
橋には「橋梁台帳」人で言えば「戸籍」「カルテ」に相応する紙ベースのデータがあ
り、飯能市では建設部などが保管をしている。しかし、石橋と石橋供養塔は、飯能市教
育委員会「飯能の石仏」に調査結果が載っているのみ。石橋供養塔には架橋情報の補填
のみでなく、当時の架橋した人びとの思いなどが刻まれている。*資料1参照
1-2 何故記録する必要があるのか
飯能市の石橋は16橋(桁橋15橋、組石1橋)あり、渡れるか否か別にして現存し
ている。今後の調査によっては17橋(桁橋15橋、組石2橋)となる可能性もあり。
ただ、石橋供養塔は、8塔存在するはずだが1塔は行方不明。また、最低限の記録はあ
るが、現地では路傍の石の取り扱いでしかない。
1-3 記録したデータをどうしたいか
石橋供養塔の情報を収集、整理、記録し、デジタルアーカイブとして保管・保存を目
指し、その後の利活用に役立てる。
・文化財としての価値を上げ 古地図なども利用して情報の量と深さで強調
・飯能市立博物館に「飯能の石橋と石橋供養塔」として寄贈
印刷メディア、デジタルメディア*将来的にはスキャン処理後のフィルムも含む
・飯能市立図書館「飯能の石橋と石橋供養塔」として寄贈
印刷メディ デジタルメディア*飯能市立図書館へのデジタルデータの寄贈は、館
の基準を満たせば受け付け可能となるかもしれない。
1-4 飯能市の石橋供養塔一覧表
表1の木綿沢石橋(ゆうのさわ)の石橋供養塔は「飯能の石仏」には載っていな
い。想像だが理由としては、飯能市ではあるが隣接の日高市境界近くにあったためか
もしれない。インターネット上の地図で確認し、今回は飯能市とした。
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飯能市の石橋供養塔一覧 調査 加藤栄子
所在地
橋名・架橋年
(橋名は呼称含む)
石橋(幅×長さ×厚さ×枚数)
飯能
飯能東谷路
(西武鉄道武
蔵丘車両基
)
木綿沢石橋
(ゆうのさわ)
寶曆十三年癸未
歳正月吉日
(1763 )
40×200×20cm×桁石 3
並列 *橋名は当時の取材か
馬頭観音は石橋方向を見てい
る。
『飯能の石仏』
p.161,246
馬頭観音、
橋供養塔、右 架橋年
丸山清氏:「ゆうのさ
わのいしばし」と呼
んだ
河原町
自治会館前
石橋供養塔のみ
石橋供羪塔
裏面 寛政九丁
巳中秋吉日
(1797 )
旧岩根橋のとこ 能仁寺
道の小川か諏訪沢に架橋と思
われる。その石橋の桁石らし
き石が、飯能河原水天宮祠前
に1本、隣接の社務所周囲3
本あり。近隣住民に聞いたが
不明の返答
『飯能の石仏』
p.165,250 側面
左り聖徳太子みたけ
道、右側面 子のご
んげんみち
横山健児氏:自治会
館の靴脱ぎ石を起こ
すと文字が彫られて
いて驚いた。
中山
中山三叉路
聖望学園、水
種稲荷近く
石橋供養塔のみ
享和四甲子年
(1804 )
北西方向に旧道で繋がる見返
り坂や涙橋の記録がある。た
だ、中山地区は堀が多いので
特定は困難。
『吾妻天満宮本開帳
記念誌』p.23
『飯能の石仏』
p.166,250 南無
遍照金剛左 谷坂戸
道、右 所沢江戸道
石橋供養
3
中居
清泰寺入口
石橋供養塔のみ
石橋は撤去し、墓地への階段
として再利用した。桁石の所
在確認出来ず
『飯能の石仏』
p.177,262
中居村□□吉日、
願主観心 村中
青木
青木交差点
西南角
石橋供養塔のみ
交差点近くの住人によると近
くの小川に架橋。場所は忘れ
た。
『飯能の石仏』
p.177,262「石橋供」
までしか読めず「養
塔」は地中。
前ケ貫
清川橋下
成木川左岸
石橋供養塔のみ
維持文化六己巳
正月吉日(1809
)
調査 山崎修二氏:清川橋
の水路に架橋されていた。
*現在も水路(空堀)は在り。
『飯能の石仏』
p.147,238
石橋供()、左
高麗郡前・・以下欠損
*清川橋工事完成ま
で、移転し保管
下畑
保入沢
(ほにゅうさ
)
石橋2基
保入(ほのいり)
寛政十三年
(1801 )石橋
供養塔は、白い
卵型。土手に半
分埋没
近くの秋葉大権現石・庚申塔
に移動
自然石 100×220×30cm
自然石 85×140×30cm
桁石 3 38×240×18cm
『飯能の石仏』
p.136,230
石橋供養塔、左
寛政十三年□□
正月 施主下畠
佛講中 □は判読不
*橋名と小字読
『南高麗郷土史』参
上赤工
畑中
寛政四壬子歳ハ
月良辰 (1792
)
石橋、石橋供養塔共に現地確
認できず。
『飯能の石仏』
p.125,221