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概要

20150218-0005-001

32 第2 章 匠の技第2章匠たくみの技竹部光春氏の石工人生 竹部光春さんは長年、石工技能者として河川や石垣などの石積み工事で腕を磨き、1980(昭和55)年に竣工した熊本県下しもましき益城郡美みさと里町の霊れいだいきょう台橋(国指定重要文化財)の保存修理工事、1999年に竣工した鹿児島市の西にしだばし田橋(鹿児島県指定重要文化財)の移設復元工事といった、大規模な石橋工事で石工棟とうりょう梁を務め、2009年に76歳で現役を引退された。 竹部さんは、霊台橋や西田橋の工事を振り返って次のように語る。 「霊台橋や西田橋の仕事ばして思うに、昔の人はよか仕事ばしとったですな。技術というもんは、どんどん高くなる。とまらん。わしも岩永三五郎さんと同じ時代に生まれとったら、よかったと思うばってん、霊台橋や西田橋の仕事ばできて、石工冥みょうり利に尽きると思うとります」(第1期講座より)17歳で弟子入り 竹部さんは1933(昭和8)年3月20日、熊本県下益城郡砥ともち用町(現在の美里町)の農家に生まれ、17歳のときに同町(東砥用)の石工、坂さかなか中眞すなお氏に弟子入りする。坂中氏の石工の師は次郎八、その師は和七、さらにその師は江戸期最大級の石造水路橋「通つうじゅんきょう潤橋」(上益城郡山やまと都町)の築造で石工棟梁を務めた種山石工の宇市である。さらに宇市の師の一人は実父で種山石工の嘉八、もう一人は鹿児島藩に招かれ西田橋などの石橋や石積みの土木工事を指揮した野津石工の岩永三五郎。竹部さんの師弟関係をたどると種山石工、さらに岩永三五郎につながる。*1 「わしは学校ば卒で て家の農業ばしよったばってん、いとこが師匠の息子さんの嫁になったけん、手に職をつけさせた方がよかて、親も考えたとでしょう。石屋の弟子になったら先(将来)が楽しみになるて言われて、弟子入りした」と竹部さんは、石工修業始まりを語る。見て仕事を覚える修業時代 竹部さんが弟子入りした1950(昭和25)年は、まだテレビ放送が始まっていない。乗用車の普及もまだで、仕事現場へは坂中師匠も歩いて行った時代だった。現場に重い道具を運ぶのは弟子。弟子の中でも新米の役目だった。師匠や先輩は手ぶらだが、17歳の竹部さんは石ノミやセリ矢などを入れた道具を、カ竹部 光春氏