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概要

20150218-0005-001

歴史を物語るアーチ 51石造アーチ橋の価値とは 現存する石橋は、それらが築造された時代の人々の思いや生活のあり方など、地域の歴史や文化を知る手掛かりを提供してくれる。地域の誇りとして大切にされている石橋には、古くからの伝承や先人の物語が語り継がれている。たとえ架橋記念碑も資料や文献の記録も見つからない、草に埋もれた石橋であっても、築造された場所にあることが、その地域の成り立ちを物語ることもある。 風雪に耐えながら周囲の自然に溶け込むその姿は、石造物ならではのわびた趣があり、春の桜、初夏の新緑、夏のせせらぎ、秋の紅葉や実り、冬は雪景色などとともに、石橋のある景観が私たちの心を癒やしてくれる。そうした景観は地域住民の記憶とともに多くの人々の心に焼き付けられ、親・子・孫の各世代が共有する心象風景の中に石橋が存在することになる。 使用されている石材や石積みの特徴などを知ると石橋は、それぞれに違いがあり、そのことが何かを物語っているようであるが、それは今後の調査・研究による解明に期待したい。歴史を物語るアーチ 石造アーチ橋の歴史を概観すると、築造の技術はまず江戸初期の長崎に伝来した。そして九州各地に伝搬し、明治期、大正期には地域的に偏在するかたちで全国各地に広がった。しかしその後は、鋼橋、鉄筋コンクリート橋が増え、昭和の半ばには石造アーチ橋が築造されることは、ほぼなくなった。石造アーチの築造技術伝来からそれまで300年余り。その間、人々の生活様式は大きく変化したが、石橋もまた変化を遂げた。石造アーチ技術の伝来 石造アーチの築造技術は、日本史では戦国時代、世界史では大航海時代、すでに琉球に伝搬している。沖縄県那覇市の首里城公園には1502年築造とされる「天女橋」(国指定重要文化財)があるが、当時の琉球国はまだ日本の統治下にない。後に鹿児島藩の支配を受けるようになるが、石造アーチの築造技術は琉球から日本本土へ広く伝搬しなかった。 その技術が全国に広まるのは、江戸期の長崎からとなる。明(中国)から渡来した興福寺(黄おうばく檗宗)の住職、黙もくす にじょう子如定が1634(寛永11)年に中島川に架けたとされる「眼鏡橋(長崎眼鏡橋)」(国指定重要文化財)に石造アーチの技術が使われている。長崎には明から多くの中国人が渡来して唐とうでら寺*5が創建さ天女橋沖縄県那覇市(首里城公園内)、1502年架橋、単一アーチ、橋長9.75㍍、橋幅2.42㍍、径間3.3㍍、国指定重要文化財