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概要

20150218-0005-001

石橋保存の壁 63 水害後、国は本明川の川幅を20㍍拡幅、堤防もかさ上げする工事に着工した。諫早眼鏡橋は爆破して解体する案が出されたが、当時の野村儀平・諫早市長が反対し、市民には石橋保存への理解を説いた。しかし深刻な災害の後でもあり、保存に理解を示す声よりもはるかに反対する声が勝った。市長辞職を求める声が高まり、窮地に立った市長は、移設復元へ向け国の予算を引き出そうと国会議員に働きかけ、石造橋では前例のない国の重要文化財指定を勝ち取り、同じく前例のない移設復元を推進した。 当時、諫早市役所土木課の職員として諫早眼鏡橋解体移築工事主任を務めた人物が山口祐造氏(故人)であり、同市役所退職後の1980年に「日本の石橋を守る会」を立ち上げ、初代事務局長に就任した。山口氏は諫早眼鏡橋の移設復元に先立ち、この橋の1/5スケールの石材模型を造り、組み立て実験を行った。 「石橋は生きている」(山口祐造著、葦書房、1992年発行)には、その際の様子が記されている。 江戸時代の眼鏡橋を移築復元するのはわが国初めてなので、文献は勿もちろん論なく指導者もいなかった。文部省(当時)も石橋復元は初めてなので方法が分からず、「復元方法は市役所に任せる。ただ昔の工法で昔の寸法通りに仕上げよ」と指示するだけである。私も初めてなので、大学に尋ねたが、ここでも分からず、諫早市の面目にかけても、自ら解決しなければならなかった。(中略) 縮尺は1/5にしたが石は立方体だから、縦、横、奥行きを1/5にすれば、大きさは1/125に小さくなる。アーチ石が拳こぶし大に縮まるので、石の制作が大変であった。復元技術を探る実験用だから1㍉以上の誤差は不合格にしたので、石工達は非常に苦労していた。(中略) 拳大やはがき大の石でも、2800個になるとさすがに多い。細かい手彫り仕事だったのに、石工組合はよく我慢してくれた。(中略) こうして諫早石工の汗と涙が滲にじむ模型で組立実験を繰り返し、10カ月間の反復実験で復元の技術や誤差の数値を大方掴つかんだ。 諫早眼鏡橋は1961年に諫早市の諫早公園へ移設復元工事が竣工した。同橋の1/5縮尺模型は64年に埼玉県所沢市の旧ユネスコ村に譲渡され保存されていたが、2006年にユネスコ村が閉鎖され、12年に諫早公園に隣接する高城公園内に移築・保存された。重要文化財諫早眼鏡橋模型(手前)橋長10.0㍍、橋幅1.1㍍。奥に諫早眼鏡橋が見える